フランス軍侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/13 17:05 UTC 版)
フランス軍の侵攻により、1792年10月21日マインツはフランス制圧下となった。選帝侯ら主だった者たちは逃亡した。はやくも10月23日、フランス軍指揮官キュスティーヌ将軍の下、選帝侯の城館においてマインツ・ジャコバン・クラブが結成された。当初のメンバーはヴェーデキント、メッターニヒ、ホーフマンら20人で、フォルスターはまだ態度を保留していた。マインツ・ジャコバン・クラブにおける主要な人物は、マインツ大学教授であるヴェーデキント、メッターニヒ、ホーフマン。キュスティーヌの秘書官でドイツ出身のベーマー。ストラスブールから送り込まれたやはりドイツ出身のドルシュ、コッタなどであるが、最も有名なフォルスターは、11月3日に加入した。11月末にはクラブの会員は500人に増えた。 マインツでは、いわゆる専制的な記念碑が壊され、自由の木が植えられて、フランス軍兵士とジャコバン・クラブ及びその動員した人々によって式典が行われた。そこではラ・マルセイエーズやサ・イラが盛んに演奏された。キュスティーヌはマインツ地域の行政を現地人に任せる方針を採り、ジャコバン・クラブから人員が選出された。臨時行政府の代表はドルシュ、副代表はフォルスターとなった。(ジャコバン・クラブや政府の役職は極めて頻繁に変更されている)クラブでは憲法草案や当地の基本方針が議論された。ジャコバン・クラブはマインツで、ジャコバン帽の描かれた赤の本、鎖のついた黒の本を並べて一種の踏み絵とし、成年している男性にたいしてどちらに署名するかを迫った。 臨時政府は地域住民に対し、封権体制の打破により税負担は軽減されると宣伝していたが、実際にはフランス軍のために物資食料を徴発せざるを得ない状況だった。ジャコバン・クラブとフランス軍は宣伝に努めたものの、フランス軍と新体制への支持はとくに農民には浸透しなかった。反フランス、反革命の論調が現れると、宣伝を担当するコッタなどが反論に努めた。革命反対派は前線での危険な強制労働に従事させられるか、あるいは死刑となった。
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