フランス軍撤退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/13 17:05 UTC 版)
そのときにはすでにマインツ共和国は反革命軍の占領下にあった。都市マインツは包囲され、フランス軍と共和国が抗戦していたが、救援の見込みがない以上降伏は時間の問題であった。なお3ヶ月粘ったが、7月22日(23日とする文献もある)ついに降伏した。フランス軍は捕虜にならず撤退が認められたが、共和国に関わった者たちは、包囲網を抜けるか、フランス人に成りすまして逃げるしかなかった。彼らは状況が絶望的となったころから三々五々逃げ出していたが、途中で捕まる者も多かった。マインツでは500人が拘束され、うち共和国を主導した、あるいはした者とみなされた40人が要塞の監獄に送られた。要塞への道筋では反ジャコバンの宣伝が浸透しており、彼らは見物の野次馬から酷い虐待を受けた。逃亡に成功した者はフランスで再起を図った。 報復が始まり、かつて弾圧する側だった親フランス派、革命派が、反フランス派、反革命派によって攻撃された。この状況はライン左岸からエルザス全域に渡って見られ、政治姿勢の異なる二つのグループが、地域、村、家の単位で対立して睨み合った。残るフランス占領地域では、物資調達のための「一掃」が指示され、徹底的な略奪が組織的に展開された。
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