フランス軍再侵攻、ライン左岸併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/06/13 17:05 UTC 版)
「マインツ共和国」の記事における「フランス軍再侵攻、ライン左岸併合」の解説
ジロンド派を弾圧して権力を握ったロベスピエールらの公安委員会の元、フランス軍の反攻が進展し、1794年の秋にはライン左岸が再びフランス制圧下となった。翌年にはバーゼル条約でフランス支配が確定的となったため、改めてライン左岸を共和国にする、シスレニア共和国構想が持ち上がった。テルミドールのクーデター以後ジャコバンを筆頭とする政治団体の結成が禁止されており、1797年フリュクチドールのクーデター以後に規制が緩和された後、活動は活発化した。ケルン、ボンなどで共和国宣言が連発し、当初この方面の軍司令官ラザール・オッシュが左岸地域の独立に好意的であったため、独立は進むかに思われたが、オッシュ急死の後にやって来た後任者オージュローは独立に反対した。これは本国の意思であった。ドイツ・ジャコバンの中でも独立派と併合派の争いは依然続いていたが、いずれにしろフランスが認めない限り独立は無く、流れのままにフランス併合がきまった。正式な併合は1801年のリュネヴィル条約による。 かつてのドイツ・ジャコバンの活動家は、判事などの官職に就いた。フランス支配下とはいえ、また、ナポレオン体制下の限界があったとはいえ、左岸地域では右岸に比べてより民主的といえる行政が行われた。ある程度の人々はそれで満足していたが、革命の進展の中でバフーフなどの思想に近い考えを持つ者は活動を続けた。
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