ナポレオン体制
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「フランス革命戦争」および「ナポレオン戦争」も参照 1789年のフランス革命の勃発はイタリアの知識層にも影響を与え革命運動を活発化させ、革命家たちは「ジャコビーノ」(ジャコバン主義者)や「パトリオット」(愛国者)と呼ばれた。二度に渡ってイタリアに侵攻したナポレオンはオーストリア軍およびイタリア諸国軍を破って半島部を征服し、ピエモンテ、トスカーナ、ローマをフランスに併合した。また、北東部から中部にはイタリア王国を建国させ養子のウジェーヌ・ド・ボアルネを副王に任命し、南部のナポリ王国には親族(兄のジョゼフ・ボナパルト、次いで妹婿のジョアシャン・ミュラ)を国王となし、フランス帝国の衛星国とした。 ナポレオン覇権下のイタリアでは旧体制(アンシャン・レジーム)を撤廃すべく、行政・税制諸改革が行われ、ナポレオン法典が導入された。この経験から、イタリア知識層の中に統一意識が芽生えるようになる。その一方で、ブルジョワ層が目指す社会改革は、農民をはじめとする大衆の利益には必ずしもつながらず、強い抵抗を引き起こしている。 1813年から1814年のナポレオン体制の崩壊とともに、それまでナショナリズム感情を利用して王位を維持していたフランスの衛星国家では反政府蜂起が引き起こされた。1814年にナポリ王のジョアシャン・ミュラ(ジョアッキーノ1世)はナポレオンを見限ってオーストリアと同盟し、イタリア副王ウジェーヌ・ド・ボアルネと敵対した。ナポレオンが退位するとウジェーヌは領土をオーストリアに引き渡し、イタリア王国は崩壊した。 翌1815年に百日天下でナポレオンが復位するとミュラはナポレオンの側についてオーストリアに宣戦布告し、イタリアの自由主義者たちに外国勢力を駆逐してイタリア統一を成し遂げようと呼びかけたが、応じる者は少なく敗北して処刑されている。
※この「ナポレオン体制」の解説は、「イタリア統一運動」の解説の一部です。
「ナポレオン体制」を含む「イタリア統一運動」の記事については、「イタリア統一運動」の概要を参照ください。
- ナポレオン体制のページへのリンク