秘密結社の出現
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 08:39 UTC 版)
「カルボナリ」および「アポファジーメニ」も参照 ウィーン体制成立後、復活したイタリアの諸邦は概ねナポレオン体制下に導入した社会制度を維持した一方で、復古王政は革命の再来を恐れて立憲主義者や自由主義者を政治的に弾圧した。これはイタリア各地で秘密結社の結成を招き、イタリア統一運動初期においての原動力となった。 もっとも、こういったイタリア民族の独立や自由、立憲や解放を望む秘密結社はウィーン体制よりはるか前から出現していた。1770年代には正当なフリーメイソンのイタリア流入が推察され、1780年代にはバイエルン選帝侯領で生まれたフリーメイソンの一分派イルミナティの支部の存在がミラノやナポリで確認されている。またフランス革命が進行するにつれてジャコビーノ派(イタリアのジャコバン派)によってイタリア各地にジャコバン=クラブが作られ、各地域で共和政の樹立を試みられた「ジャコビーノ革命」が起こり弾圧の対象となっていた。1796年頃には北イタリアの完全独立を目指す「黒色連盟」の存在が知られ、それはやがて1798年に結成された秘密結社「ラッジ協会」(後に「チェントリ」に改称)に吸収されたと言われる。黒色連盟やラッジ協会はイタリアの民主主義を弾圧しイタリアの民族感情を無視したやり方でイタリアを統治するナポレオンに反発して生まれたもので、それと同様のものは騒擾も厭わない過激派組織「アミーチ・デル・ポーポロ」などがある。またナポレオン体制は伊・仏両国のジャコバン派の協力を促し秘密結社運動を促進させたが、1800年代初頭にブザンソンで結成された秘密結社「フィラデルフ」はその先駆で、母体はフランス軍の反ボナパルト分子でありながらフィリッポ・ブオナローティなどイタリア人も参加した。 やがてフィラデルフの姉妹結社「アデルフィア」がジュネーヴを拠点として北イタリアに勢力を伸ばすも、1818年にはブオナローティ指導下の秘密結社「スプリーミ=マエストリ=ペルフェッティ」に吸収された。これは他の秘密結社の上位に立つ結社で、ピエモンテやロンバルディアの「フェデラーティ」、ロマーニャの「トゥルバ」など小規模結社を指揮下に収めた。また中部イタリアではカトリックの立場からナポレオンに反発する秘密結社「グェルフィーア」が生まれ、これは後に上記したラッジ協会に吸収された。 このような秘密結社が乱立する中で、統一運動初期に最も影響力があった革命家グループは19世紀前半に南イタリアで結成された秘密結社カルボナリ(炭焼党)である。平等と民主主義を標榜する、そのメンバーたちは中産階級や知識人が中心であったが、それ以外の階層の参加もあった。北部や中部にも勢力を拡大し、党員は30万人に達したとされる。この秘密結社は統一運動初期における闘争の中核勢力となり、ピエモンテ革命やナポリ革命に参加した革命家の多くがカルボナリのメンバーであった経歴を有している。女性の場合はカルボナリには直接関与せず、ジャルディニエーレ協会(イタリア語版)という姉妹結社を設立し彼女たちも初期の革命闘争に加担した。また、少し遅れて1830年代にはアポファジーメニが結成され、カルボナリに次ぐ影響力を持って中部イタリア革命などに貢献した。これら二つの組織はやがて、青年イタリアへと結びつく事になる。 また、結成された秘密結社は必ずしも自由主義や立憲主義のものばかりではなく、教皇権を絶対視するものや保守主義を掲げる右翼的なものも存在した。1782年頃にピエモンテに存在した「アミチーツィア=クリスティアーナ」や「ソチエタ=デル=クオーレ=ディ=ジェス」、ナポリ王国の「カルデラーリ」、1819年頃に結成された秘密結社「サンフェディスティ」などが代表的で、これらは復古政府や各君主からも半ば公認の結社だった。ナポレオン体制下では反ナポレオン・反フランスという点で左右両翼の秘密結社間にも目的の一致があったものの、ウィーン体制以降は民主化や近代化への思想の違いから両者は対立。右翼的結社は復古政府と通じて左翼的結社を弾圧し、結果としてナポリ王国ではカルボナリの中でも武力行使を辞さない「デチージ」などの結社に繋がった。また、政府側が神聖同盟などを通じて国際社会との結びつきを強めていく中、秘密結社もまたドイツやフランスの結社と連携して国際的な繋がりを強めた。 このようにしてイタリア統一運動初期は、左翼右翼に関わらず主に秘密結社が情勢のカギを握っていた。
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