教皇権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/26 05:51 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動教皇権(きょうこうけん)とは、ローマ教皇がもつカトリック教会を管理し、信徒を指導する最高司牧権[1][2]。
教皇権の根拠
イエスの最初の弟子であるペテロは、イエスから以下のように告げられた。
ヨハネによる福音書では「わたしの羊を養いなさい」と告げられた[4]。カトリックでは、聖書のこれらの箇所を、ペテロがキリストから使徒団の中で特別の使命と権限を受けたと理解される[1]。
また、マタイによる福音書によれば、使徒は教導する権能を与えられ、「世の終りまですべての国民を信徒とする」ために派遣された[1]。
あなたがたが地上でつなぐことは、天でも皆つながれ、あなたがたが地上で解くことは、天でもみな解かれるであろう。また、よく言っておく。もしあなたがたのうちのふたりが、どんな願い事についても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう。ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている所には、わたしもその中にいるのである。 — マタイによる福音書18:18-18:20[3]
イエスは彼らに近づいてきて言われた、「わたしは、天においても地においても、いっさいの権威を授けられた。それゆえに、あなたがたは行って、すべての国民を弟子として、父と子と聖霊との名によって、彼らにバプテスマを施し、あなたがたに命じておいたいっさいのことを守るように教えよ。見よ、わたしは世の終りまで、いつもあなたがたと共にいるのである」 — マタイによる福音書28:18-28:20[3]
こうした使徒の教導権、そしてペテロの全教会に対する首位権は、ローマ司教である教皇に受け継がれた[1]。
古代におけるローマ教会の首位権
中世における教皇権至上主義
中世ヨーロッパにおいては神聖ローマ皇帝の皇帝権とローマ教皇の教皇権とが対立し、叙任権闘争やグレゴリウス改革などの教会改革(教皇改革[5])においては、教皇権が皇帝権に対して優位となり教皇権至上主義が頂点に達した[6]。
脚注
注釈
出典
関連項目
教皇権
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「グレゴリウス1世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇権」の解説
グレゴリウス1世は、東ローマ帝国に近い知識人の代表で、ユスティニアヌスによる再征服後の、まだ帝国の支配が実効性を持っているローマに生き、部族国家の定住によって西欧に生じた現実を見据えつつも、それら部族国家の外側に生きた。グレゴリウスは部族国家という政治単位に分断されつつある西欧世界の現実の中で、教会の統一を守ろうとし、教皇の優位性は必要であった。教皇という核がなければ、西欧世界での教会の統一はたちまち失われ、部族国家ごとに教会は分断されかねない。現に一部の部族国家は異端のアリウス派を信仰していた。一方で彼は教皇と教会を同一視するという観念に先鞭をつけたともいわれる。 グレゴリウスは教皇ゲラシウス1世の両剣論を根拠に、宗教的裁治の管轄権が教皇にあると主張した。しかし彼は、俗権である皇帝権力が霊的使命を放棄し、宗教領域への介入を捨て、世俗的職務に専念せよと述べているのではない。国家はむしろ教会と協働して霊的使命を果たすのであり、その霊的使命を放棄しては国家の存在価値自体が失われるのである。グレゴリウスが教皇に選出されたとき、マウリキウス帝はそれを追認したが、彼は皇帝がローマ司教かつ教皇に対して任命権を行使したことに何ら疑問を抱かなかった。彼は皇帝の権威が神に由来するものであることを認め、その権威を尊重しており、両権の協働を唱えた。 グレゴリウスは部族国家に対しては、その権力を認める代わりにキリスト教秩序への参画を求めた。グレゴリウスは部族の君主たちに助言を与え指導することで、間接的に道徳的権威を行使した。キリスト教精神は国家理念の欠如していたこれら部族国家の目標となり、教会は国家に活力を与える存在となり、教皇座の霊的権能を高めた。それまで各部族国家の王は法律を作る権威を持たず慣習に従属していたが、キリスト教はこの慣習を変えるものであった。
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