教皇暗殺未遂事件
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/09 06:01 UTC 版)
「メフメト・アリ・アジャ」の記事における「教皇暗殺未遂事件」の解説
アジャは1981年5月13日、バチカンのサン・ピエトロ広場で、オープンカーに乗って信者の前をパレード中のヨハネ・パウロ2世を短銃で銃撃する暗殺未遂事件を起こす。 その動機は明らかにされていない。逮捕後の供述では、アジャは事件は政治的理由ではなく、報酬目当てであったと述べた。アジャはソフィアでブルガリアの情報機関と接触し、300万ドイツマルクの報酬で教皇暗殺を請け負ったという。ヨハネ・パウロ2世がポーランドの独立自主管理労働組合「連帯」を支援していたことからKGBの暗殺対象となり、その指示でブルガリア当局はアジャに接触したともいう。しかしながら、エドワード・ハーマンやマイケル・プレンティを始めとする多くの人々は、アジャの話を曖昧であるとして疑っている。 1980年8月から彼はパスポートと身分証明を偽造し、足跡を隠した。彼は1981年5月10日にミラノから列車でローマ入りした。アジャの証言によれば、ローマで彼は3人の共犯者(1人はトルコ人、2人はブルガリア人)に偶然出会ったという。そしてブルガリアの武官、ジロ・ヴァシエフが作戦決行を指示したとされる。計画では、アジャとバックアップの狙撃者オラル・セリクは、サン・ピエトロ広場で教皇を狙撃した後、爆弾を炸裂させ混乱を引き起こし、ブルガリア大使館へ逃亡する予定であった。 5月13日、二人は教皇の到着を待つサン・ピエトロ広場の大勢の群衆にまぎれ込んでいた。教皇の車列が現れ、二人の前にさしかかった時、アジャはブローニング拳銃を取り出し、教皇に向けて四発の九ミリ弾を発射し、そのうち二発を命中させた。しかしアジャはたちまち周囲の群衆にとり押さえられた。教皇は重傷を負うが致命傷は免れた(のち公開された入院中の写真では、両腕に包帯を巻いている)。
※この「教皇暗殺未遂事件」の解説は、「メフメト・アリ・アジャ」の解説の一部です。
「教皇暗殺未遂事件」を含む「メフメト・アリ・アジャ」の記事については、「メフメト・アリ・アジャ」の概要を参照ください。
- 教皇暗殺未遂事件のページへのリンク