教皇権強化と神聖ローマ皇帝の後見
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/01 17:01 UTC 版)
「ウィクトル2世 (ローマ教皇)」の記事における「教皇権強化と神聖ローマ皇帝の後見」の解説
登位後は宗教界の引き締めと教皇権威の上昇に取り組み、1055年にエルメサンド・ド・カルカソンヌ(英語版)(バルセロナ伯ラモン・ボレイ妃)の要請によりバルセロナ伯ラモン・バランゲー1世とアルモディス・ド・ラ・マルシュを不貞の罪で破門した(1056年まで)。 1055年6月、フィレンツェでハインリヒ3世と会談し、レオ9世による聖職者の結婚、聖職売買、教会財産の流失への弾劾を継承し強化することを決めた。翌年、危篤のハインリヒ3世の元へ召喚され、ハルツのBodfeldでの彼の死去を見届けた。この後、幼いハインリヒ4世の後見人、またその母で摂政のアグネス・フォン・ポワトゥーの補佐役として絶大な権力をふるうようになり、神聖ローマ帝国の平和の維持や教皇権の拡張に努めた。しかしイタリアに帰ってまもなく、1057年7月28日にアレッツォで死去した。 ウィクトル2世の従者は遺骸をアイヒシュタットに埋葬することを望んだが、その途上ラヴェンナで市民に押収され、テオドリック廟(東ゴート王テオドリック大王の霊廟)に埋葬された。 ウィクトル2世は歴史上9人のドイツ人教皇の一人であるが、現在のドイツ連邦共和国の領域出身の教皇は彼とクレメンス2世、ベネディクト16世の3人のみである。
※この「教皇権強化と神聖ローマ皇帝の後見」の解説は、「ウィクトル2世 (ローマ教皇)」の解説の一部です。
「教皇権強化と神聖ローマ皇帝の後見」を含む「ウィクトル2世 (ローマ教皇)」の記事については、「ウィクトル2世 (ローマ教皇)」の概要を参照ください。
- 教皇権強化と神聖ローマ皇帝の後見のページへのリンク