テオドリック (東ゴート王)
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テオドリック(Theodoric、ゴート語: 𐌸𐌹𐌿𐌳𐌰𐍂𐌴𐌹𐌺𐍃、454年 - 526年8月30日)は、東ローマ帝国の軍人および政治家。484年の執政官。ローマ帝国の副帝としてローマ帝国の西半分を統治した[5]。また、497年にイタリア王の称号を認められ、東ゴート王国を成立させた[6]。表記は他にテオデリック(Theoderic, Theoderik)、テオドリクス(羅: Theodoricus)、 テオドーリコ(伊: Teodorico)など。しばしばテオドリック大王と呼ばれる。
注釈
- ^ ゴート人が共通して推戴する王や王家といったものはなかった[10]。同時期にはティウディミールやウァラメールらの他にもビゲリスやアンダギスなどのゴート人の王に率いられた複数の集団があったことが知られている[10]。王とは集団によって認められたカリスマ的な指導者であり、集団の成員構成が変わるたびに歓呼による推戴の繰り返しが必要だった[9]。
- ^ レオ1世の妻ウェリナやレオ1世の義弟バシリスクスらを中心とした反乱[16]。翌476年中には鎮圧された[16]。
- ^ レオ1世の娘レオンティアやレオンティアの夫マルキアヌスらを中心とした反乱[22]。
- ^ すなわちテオドリックが東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(グルトゥンギ)と、イタリア遠征以降に率いた東ゴート人とは異なる集団だったということである[28][29]。これは西ゴート人と呼ばれるようになった集団についても同様で、最終的にイスパニアに定着した西ゴート人とアラリック1世が東ローマ帝国で率いていたゴート人の集団(テルウィンギ)は異なる集団だった[28]。
- ^ 西ゴート人の指導者は王(rex)と呼ばれることを嫌い、代わりに「ローマ帝国の判官」と認められることを好んだ。部族内の有力者は皆が対等とみなされ、王を絶対視する風潮もなかった[45]。これはゴート人の伝統と考えられ、ドナウ渡河時のアタナリックもローマ皇帝との交渉において王と呼ばれることを拒否している[45]。
- ^ 西ゴート王国では伝統的に選挙君主制が採用され[47]、血筋による世襲や王朝観念は形成されなかった[47]。そのため実力者による指導者の交代劇は特に強い抵抗なく受け入れられた[47]。
- ^ 特に当時はゼノンが482年に発布した『信仰統一勅令』ヘノティコンによって引き起こされたアカキオスの分離と呼ばれるローマ教会とビザンティン教会の断交期だった[50]。
- ^ 『銀文字聖書』[51] や『銀の手写本』[52] とも呼ばれる。
- ^ この時代に起こったローマ文化の興隆は、歴史学では「東ゴート・ルネサンス」と呼ばれている[57]。
- ^ コンスタンティノープルの宮廷ではユスティヌス1世に影響の大きかったユスティニアヌス1世がローマ帝国をオルトドクス(ギリシャ正教)で統一しようとしていたので、あながちテオドリックの警戒は間違いでもなかった[59][60]。
- ^ 522年にはユスティヌス1世がボエティウスの2人の息子ボエティウス(父と同名)とシュンマクス(父ボエティウスの義父と同名)を執政官に任命しているが、これはテオドリックの推薦によるものだった[58]。
- ^ ボエティウスの著作『哲学の慰め』は、このとき獄中で書かれたものである[61]。
- ^ 東ローマ帝国では聖職者(通常はコンスタンティノープル総主教)による戴冠が皇帝即位の条件だった[64][65]。
出典
- ^ 『世界大百科事典 第2版』平凡社, テオドリック[大王]
- ^ 『日本大百科全書』小学館, テオドリック(大王)
- ^ 『百科事典マイペディア』日立ソリューションズ, テオドリック[大王]
- ^ 松谷、p.63。
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- ^ Heinz Ritter-Schaumburg: Dietrich von Bern. König zu Bonn. Herbig: Munich / Berlin 1982
- ^ See, for example, the critical review by Henry Kratz, in The German Quarterly 56/4 (November 1983), p. 636-638.
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- 2 テオドリック (東ゴート王)の概要
- 3 ディートリヒ伝説
- 4 子女・子孫
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