ヒスパニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/23 01:58 UTC 版)
ヒスパニア(ラテン語: Hispania)は、イベリア半島(現在のスペインとポルトガルや、アンドラ・ジブラルタルの領域)の古名である。なお、スペインの現代語での名称(西: España、葡: Espanha、仏: Espagne、伊: Spagna、英: Spain、独: Spanien、露: Испания、阿: إسبانياなど)は全てこのヒスパニアを語源とする。
語源
由来については諸説あり、フェニキア語で「隠れた土地」や「ウサギの土地」を意味する言葉に由来するという説や、同じくフェニキア語で「冶金の島」を意味する「I-span-ya」が「España」の由来であるという説がある。
現在は後者の「冶金の島」が地名の由来として最も信憑性が高いとして扱われている。[1][2]
歴史
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先住民族はイベリア人とされているが、ケルト人やフェニキア人・ギリシア人なども入植している。カルタゴ支配(植民地)を経た後に共和政ローマの支配下に入り、ヒスパニア・キテリオル(ラテン語: Hispania Citerior、イベリア半島北部)、ヒスパニア・ウルテリオル(ラテン語: Hispania Ulterior、イベリア半島南部から西部、現在のスペイン・アンダルシア州とポルトガル主要部に相当)の2つに分かれた。
ローマ帝国の初代皇帝アウグストゥスの時期にヒスパニア全土がローマの支配下へ入り、ヒスパニアはヒスパニア・タッラコネンシス、ヒスパニア・バエティカ、ルシタニアへと再編された。
関連項目
- ^ “«I-span-ya», el misterioso origen de la palabra España y el nombre de otros países europeos” (スペイン語). Diario ABC (2016年2月1日). 2024年9月23日閲覧。
- ^ hispaniamipatria (2015年8月21日). “Hispania, Iberia, España. Etimología.” (スペイン語). hispaniamipatria. 2024年9月23日閲覧。
ヒスパニア
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 10:26 UTC 版)
「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・セルウィリアヌス」の記事における「ヒスパニア」の解説
紀元前141年、セルウィリアヌスのために強力な軍が編成された。兵力は2個ローマ軍団とほぼ同数のアウクシリア(支援軍)で、歩兵18、000と騎兵1,600からなっていた。加えて、ヌミディア王ミキプサは戦象を送ることを申し出ていた。現地に到着したセルウィリアヌスは、ルシタニア軍に包囲されていたウティカを救援するために、軍の一部とともにウティカに向かった。ルシタニア軍は包囲は解いたものの、ヴィリアトゥスが率いる6,000のルシタニア軍が、行軍中のローマ軍を攻撃した。ルシタニア軍は「野蛮人が常に行うように、敵を威嚇するために、雄叫びをあげ騒音と共に、長い髪を振り乱しながら、攻撃をしかけてきた。セルウィリアヌスはこの攻撃を撃退することができた。またこの後直ぐに、ヌミティアから戦象10頭と300騎のヌミディア騎兵が到着した。 セルウィリアヌスは兵力を結集し、ルシタニア軍に会戦を挑んだ。ルシタニア軍は最初敗走したが、ローマ軍の戦闘隊形が乱れているのを見て反撃を開始し、戦況は逆転してローマの敗北に終わった。戦死者は3,000に達し、生存者は野営地に逃れ、再度の出撃を拒否した。兵士たちを戦わせることができたのは有能なトリブヌス・ミリトゥム(高級士官)であるガイウス・ファンニウスのみであった。夜が訪れたために、なんとかローマ軍は壊滅を免れた。しかし、その後も敵の軽騎兵が積極的に行動したため、セルウィルアヌスはウティカへの退却を余儀なくされた。 一方でヴィリアトゥスも食料が不足し始め、ルシタニアに退却した。このため最終的には、戦況はローマ軍が優位となった。セルウィルアヌスはべトゥリア(現在のアンダルシア地方の北西部)に移動し、敵を支援する5つの都市を奪取して略奪した。そこからルシタニアに侵攻しようとしたが、途中でキュリウスとアピュレイウス(名前から判断して、ルシタニア人)が指揮する1万人の分遣隊に襲われた。ローマ軍は「大混乱」に陥り略奪品を失ったが、少し後には敵を撃退することができた。どうやらこの出来事により、セルウィルアヌスは計画の変更を余儀なくされたようで、まずヒスパニア・ウルテリオル属州の秩序を回復することにした。セルウィルアヌスはヴィリアトゥスの兵がかつて駐屯していたエスカディア、ゲメッラ、オボロコラを占領し、10,000を捕虜とした。内500は斬首し、残りは奴隷として売られた。3,000人の分遣隊を率いていた「盗賊」コノバはセルウィルアヌスに投降してきた。兵士の命を救う代わりに、彼等の両手は切り落とされた。 クイント・ファビウス・マキシムスは、戦意旺盛な兵士の精神を弱めたいと考え、しばらくの間優しさを封印し、厳しく残酷な刑に処すことにした。そして、体から切り離された血まみれの手が大地に転がったが、これは強力な警告となった。 ウァレリウス・マクシムス『有名言行録』、II, 7, 11. この刑に関しては、フロンティヌスは右手のみを切断したとしており、オロシウスは指導的立場の500人の手を切落したとしている。 これらの勝利の後、セルウィルアヌスは冬営に入った。彼は属州の大部分から敵を一掃することができた(ティトゥス・リウィウスは、いくつかの都市と共にルシタニアの大部分を征服したと書いている)。一方ローマでは、戦争は終結には程遠いと考え、紀元前140年には執政官の一人をヒスパニア・ウルテリオルに派遣することにした。派遣されることになったのは、やはりセルウィルアヌスの弟であるクィントゥス・セルウィリウス・カエピオであったが、カエピオは新しい軍の編成に長期間を要したため、セルウィルアヌスは引き続き軍の指揮を執った。 春になって戦いが再開された。セルウィルアヌスはエリサナを包囲した。ヴィリアトゥスは夜のうちに城内に入り、翌日の夜明けに塹壕で活動しているローマ軍を駆逐した。セルウィルアヌスは残った兵に戦列を組ませ、再度戦ったがまたも敗北し、ローマ軍は崖際に追い詰められた。ヴィリアトゥスはここでローマ軍を壊滅させたとしても、新たな軍が送り込まれてくることを理解していた。代わりに、ヴィリアトゥスは、セルウィルアヌスに講和を提案した。両者は合意し、ローマ軍は包囲から開放され、その見返りとしてセルウィルアヌスを「ローマの友人であり同盟者である」と認めた。この条約は直ぐにローマで批准された。しかしシケリアのディオドロスは、セルウィルアヌスをローマにとって恥ずべき人物と評している。 同年、セルウィルアヌスは軍の指揮を弟のクィントゥスに引き渡した。クィントゥスはこの状況はローマの権威を傷つけると不本意であり、元老院から戦争再開の許可を得た。ルキウス・アンアエウス・フロルスは、セルウィルアヌスの勝利は、紀元前139年の執政官マルクス・ポピッリウス・ラエナスが既に力尽き降伏を考えていたヴィリアトゥスを攻撃したことにより、「汚された」と書いている。
※この「ヒスパニア」の解説は、「クィントゥス・ファビウス・マクシムス・セルウィリアヌス」の解説の一部です。
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