カルリスタ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 05:54 UTC 版)
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カルリスタ戦争(カルリスタせんそう、スペイン語・ガリシア語:Guerras Carlistas、バスク語:Gerra Karlistak、カタルーニャ語:Guerres Carlines)は、1833年から1876年まで3次にわたって続いた、スペインの王位継承をめぐる戦争である。だが、王位継承戦争としての形は取りつつも戦争の実態は近代化(自由主義・中央集権)か反近代化(伝統主義・教権主義・地方特権擁護)か、半島戦争後のスペインの新しい時代の体制をめぐる戦争でもあった。結果はいずれも前者のイサベル2世派の勝利に終わった。
背景
ナポレオン戦争後のウィーン体制ではボルボン家のフェルナンド7世がスペイン国王に復位した。フェルナンド7世はカディス憲法の破棄など反動的な政治を行った。それに対してスペイン立憲革命などの反発が起こったが、神聖同盟の支援で鎮圧した。フェルナンド7世の絶対王政復古体制は1833年9月29日に彼が死去するまで続いた。
王位継承問題
フェルナンド7世には王子がなく、幼いイサベル王女とルイサ・フェルナンダ王女がいるのみであった。サリカ法典を基礎とした1713年王位継承法では後継は弟のドン・カルロスになるはずであった。しかしカルロス4世が女子の王位継承権を認める1789年の国事詔書を制定しながら布告せずにいたところ、40年以上後になってフェルナンド7世が1830年の国事詔書でこれを布告し、発効させた。ドン・カルロスはポルトガルに追放され、イサベルが王位継承者となった。
1833年9月29日にフェルナンド7世が死去すると、わずか3歳のイサベルが、摂政王太后マリア・クリスティーナの補佐のもとイサベル2世(在位:1833年 - 1868年)として即位した。
これを承服しない王弟ドン・カルロスは10月1日に、ポルトガルで国王即位を宣言し、カルロス5世を称した。これを受けてバスク地方でカルロス支持派(カルリスタ)による反乱が起き、内戦に突入した。
戦争の性格
カルリスタは絶対王政、教会、地方特権などの封建的社会制度を擁護し、経済構造でも反工業化を唱えた。一方、イサベル女王を戴くマドリード政府は、自由主義的、市民革命的、中央集権的な上からの近代化を標榜して自由主義者の支持を取り付けた。この内戦は王位継承戦争だけではなく、スペインの体制を左右する意味を帯びていた。
戦争
第一次カルリスタ戦争
1833年からおよそ7年続いた。主戦場となったのは、バスク、アラゴン、カタルーニャ、バレンシアであった。
カルロス5世を支持するカルリスタは独自の統治機関や軍隊を有し、スペインを席巻した。国土の3分の1までを勢力下におき、1837年夏には威信を高めるためにマドリード攻略を試みたほどであった。しかし、このカルリスタは統一的行動を取れず、次第に内部分裂を起こした。それが原因して徐々に勢力を減じ、1839年には降伏して、イサベルの王位が確定した。
第二次カルリスタ戦争
1846年9月から1849年5月まで続いたカタルーニャの反乱であり、ガリシアにも飛び火した。暴徒はモンテモリン伯カルロスをイサベル2世と結婚させ、「カルロス6世」として王位につけようとした。イサベル2世は1846年10月にフランシスコ・デ・アシスと結婚したが、反乱はその後3年も続き、死者の数は3千から1万とされる[1]。ガリシアで起きた反乱はラモン・マリア・ナルバエス将軍が鎮圧した。反乱後の1849年6月、カルリスタには恩赦が与えられた。
バスク地方では反乱がほとんどなかったためカウントされず、第三次カルリスタ戦争が「第二次」とされる。
第三次カルリスタ戦争
1868年にイサベル2世が退位しフランスへ亡命すると、議会はサヴォイア家のアマデオ1世即位を決定した。1872年の選挙で政権側がカルリスタ側の候補に暴力的な妨害を行い、揺さぶりを掛けた。マドリード公カルロスがカルロス7世を称して戦争が始まり、1876年まで続いた。
戦争の影響
この戦争の間、マドリードの政府では自由主義的改革が行われた。憲法の制定、教会財産の没収と売却、教会の十分の一税の廃止、封建的領主制度の廃止、営業自由の確立などである。この改革にはブルジョワジーの支持を得る目的があるが、同時に伝統主義者たちの基盤を突き崩すことにもなった。この結果、スペインは近代国家としての体裁を整えることになる。
戦争後も「カルリスタ」たちは反乱を起こし、スペインの保守派の一翼を担う存在として存続し続けた。
しかし、1936年にドン・カルロスの男子直系が断絶すると、1713年王位継承法に従えばフェルナンド7世とドン・カルロスの弟であるカディス公フランシスコ・デ・パウラの男子直系が王位請求者となる筈であった。しかし、彼の長男であるフランシスコ・デ・アシスがイザベル2世の王配であるために共和制宣言によって亡命中のイザベル2世の孫である前国王アルフォンソ13世が王位請求者になるという矛盾した事態が発生した。このため、アルフォンソとその子孫の王位継承権を認めるか他の候補者を立てるかで「カルリスタ」たちは分裂・衰退していくことになる。
王位請求者系図
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スペイン王
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カルリスタ直系
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ブルボン=パルマ家系
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ハプスブルク=トスカーナ家系(カルロクタビスタ派)
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その他の王位請求者
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フェリペ5世 スペイン王 |
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カルロス3世 スペイン王 ナポリ王・シチリア王 パルマ公 |
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フィリッポ パルマ公 〔ブルボン=パルマ家〕 |
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カルロス4世 スペイン王 |
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フェルディナンド パルマ公 |
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(長男) フェルナンド7世 スペイン王 |
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(三男) フランシスコ・デ・パウラ カディス公 |
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(次男) カルロス モリナ伯 (カルロス5世) |
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ルドヴィーコ エトルリア王 |
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イサベル2世 スペイン女王 |
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フランシスコ・デ・アシス カディス公 |
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カルロス・ルイス モンテモリン伯 (カルロス6世) |
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フアン・カルロス モンティソン伯 (フアン3世) |
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ミゲル1世 ポルトガル王 |
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カルロ・ルドヴィーコ エトルリア王 ルッカ公 パルマ公 |
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アルフォンソ12世 スペイン王 |
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カルロス マドリード公 (カルロス7世) |
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アルフォンソ・カルロス サン・ハイメ公 (アルフォンソ・カルロス1世) |
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マリア・ダス・ネヴェス |
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カルロ3世 パルマ公 |
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アルフォンソ13世 スペイン王 |
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ハイメ マドリード公 (ハイメ3世) |
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ブランカ |
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レオポルト・ザルヴァトール (ハプスブルク=トスカーナ家) |
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マリーア・アントーニア |
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ロベルト1世 パルマ公 |
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ハイメ セゴビア公 (ハイメ4世) |
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フアン(3世)[2] バルセロナ伯 (フアン4世) |
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アントン (カルロス9世) |
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フランツ・ヨーゼフ (フランシスコ・ホセ1世) |
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カール・ピウス (カルロス8世) |
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ハビエル モリナ伯 (ハビエル1世) |
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アルフォンソ カディス公 |
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ゴンサーロ |
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フアン・カルロス1世 スペイン王 |
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ドミニク |
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カルロス・ウゴ マドリード公 (カルロス・ウゴ1世) |
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シクスト・エンリケ アランフエス公 |
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ルイス・アルフォンソ |
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フェリペ6世 スペイン王 |
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カルロス・ハビエル マドリード公 (カルロス・ハビエル2世) |
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脚注
- ^ Nineteenth Century Death Tolls
- ^ 没後に「スペイン王」として追尊
関連項目
- カルロス主義
- カルリスタ王位請求者の一覧
カルリスタ戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/18 14:22 UTC 版)
「スペイン・ブルボン朝」の記事における「カルリスタ戦争」の解説
詳細は「カルリスタ戦争」を参照 1833年にフェルナンド7世が死去すると、遺言通りにイサベル2世が即位した。これに対してカルロスは自らをカルロス5世と称して即位宣言を行った。カルロスを支持する一派をカルリスタと呼ぶ。カルリスタはナバラやバスクなどのスペイン北部の保守派、特に聖職者や農民層に支持基盤を置いていた。そしてカルリスタは一斉蜂起を行い、内戦が勃発する。その勢いは凄まじく、1837年のカルロス自らの遠征ではマドリード近郊まで迫ったほどであった。 カルリスタの猛攻に対して、イサベル2世の母で摂政であったマリア・クリスティーナは自由主義勢力との連携を深めることにし、マルティネス・デ・ラ・ロサに政権を委ねた。マルティネスは国内の自由主義派やイギリス、フランス、ポルトガルからの支持を取り付けることに成功させ、カルリスタの内部分裂も相まって、戦局を有利に展開させた。1839年にベルガーラ協定が結ばれて内戦が終結し、カルロスはフランスへ亡命した(残党勢力も翌年にフランスへ亡命した)。 イサベル2世は1846年に父方の従兄であるカディス公フランシスコ・デ・アシスと結婚し、アルフォンソなど12人の子供を儲けており、一応はブルボン家の男系を保つ形となっている。ただし、フランシスコは同性愛者もしくは性機能障害という説があり、子供たちの父親は別にいるのではないかとの噂がある。
※この「カルリスタ戦争」の解説は、「スペイン・ブルボン朝」の解説の一部です。
「カルリスタ戦争」を含む「スペイン・ブルボン朝」の記事については、「スペイン・ブルボン朝」の概要を参照ください。
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