カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/17 05:58 UTC 版)
カルロス・マリーア・デ・ボルボン Carlos María de Borbón |
|
---|---|
ボルボン家 | |
![]()
モリナ伯ドン・カルロス
|
|
|
|
全名 | Carlos María Isidro Benito カルロス・マリーア・イシドロ・ベニート |
称号 | モリナ伯 |
出生 | 1788年3月29日![]() |
死去 | 1855年3月10日(66歳没)![]() |
埋葬 | ![]() |
配偶者 | マリア・フランシスカ・デ・ブラガンサ |
マリア・テレザ・デ・ブラガンサ | |
子女 | |
父親 | カルロス4世 |
母親 | マリア・ルイサ・デ・パルマ |
カルロス・マリーア・デ・ボルボン・イ・ボルボン=パルマ(スペイン語: Carlos María de Borbón y Borbón-Parma, 1788年3月29日 - 1855年3月10日)は、スペインの王族。モリナ伯。カルリスタの王位請求者としてカルロス5世(スペイン語: Carlos V)を称した。
生涯
カルロスは、スペイン国王カルロス4世とその妃マリアの間の次男としてマドリードの王宮で生まれた。
兄のスペイン王フェルナンド7世は嫡出の男子を持たず、4度目の結婚で王女イサベルを得たのみであった。ボルボン家はサリカ法による継承を定めていたため、カルロスが王位を継承する予定であったが、フェルナンド7世は1830年に国事詔書を発してサリカ法を廃した。1833年にフェルナンド7世が死去すると、娘のイサベルがイサベル2世としてスペイン女王に即位した。
スペインでは当時、ブルジョワの支持する自由主義派と、教会・貴族地主を中心とする反動派が政治対立を続けていたが、カルロスは後者と結託した。そのため、摂政マリア・クリスティーナ王太后はブルジョワと結びついた。ここに7年にわたる内乱、第一次カルリスタ戦争が発生することになった。1833年、カルロスはバスクとナバラに政府を作ってカルロス5世と称し、トマース・デ・スマラカレギ、ラモン・カブレラ将軍を司令官として、マドリードの政府軍と衝突した。最初は優勢を占め、一時はマドリードに迫る勢いだった。しかしバルドメロ・エスパルテロを将軍に迎えたマドリード軍が逆襲し、カルリスタ内で教会と軍の分裂が生じたため、次第に足並みが乱れた。1839年にスマラカレギに代わり将軍となったラファエル・マロトは、単独でマドリードの政府とベルガラ協定を結んで休戦した。
カルロスはフランスのブールジュに亡命した。1845年にはカルリスタの王位を長男のカルロス・ルイスに譲り、自らはトリエステに引退した。
この後もカルリスタはスペイン北部で勢力を保ち、19世紀を通じて政治勢力として存続し、王位請求運動を行った。
家族
1816年に、ポルトガル国王ジョアン6世の次女マリア・フランシスカ(1800年 - 1834年)と結婚した。姉カルロータ・ホアキーナの娘であるため、カルロスとマリア・フランシスカとは叔父と姪の関係にあった。2人の間には3男が生まれた。
マリア・フランシスカと死別後、1838年にその姉マリア・テレザ(1793年 - 1874年)と再婚した。2人の間に子供は生まれなかった。
関連項目
- モンテ・クリスト伯 - 作中に、ドン・カルロスとして言及がある。
|
|
|
固有名詞の分類
金羊毛騎士団員 |
カルロ・エマヌエーレ1世 コンスタンチン・パヴロヴィチ カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン カール・ルートヴィヒ・フォン・エスターライヒ アンドレア・ドーリア |
スペインの王族 |
マリア・テレサ・デ・ボルボーン アントニオ・パスクアル・デ・ボルボーン カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン ガブリエル・デ・ボルボーン ガエターノ・ディ・ボルボーネ=ドゥエ・シチリエ |
スペイン・ブルボン家 |
マリア・テレサ・デ・ボルボーン アントニオ・パスクアル・デ・ボルボーン カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン ガブリエル・デ・ボルボーン マリア・デ・ラス・メルセデス・デ・ボルボーン・イ・アブスブルゴ=ロレナ |
カルリスタ王位請求者 |
ルイス・アルフォンソ・デ・ボルボーン サヴェリオ・ディ・ボルボーネ=パルマ カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーン カール・ピウス・フォン・エスターライヒ=トスカーナ アントン・フォン・エスターライヒ=トスカーナ |
- カルロス・マリア・イシドロ・デ・ボルボーンのページへのリンク