王宮 (マドリード)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/03 09:16 UTC 版)
マドリード王宮(マドリードおうきゅう、西: Palacio Real de Madrid)は、スペイン・マドリードにある宮殿。オリエンテ宮殿(Palacio de Oriente)とも呼ばれる、スペイン王の王宮である。実際には国王や王族は住んでおらず、彼らは郊外にあるマドリード王宮より小さなサルスエラ宮殿に好んで暮らす。しかし、マドリード王宮は未だに国の行事に使用されている。宮殿はスペイン政府の所有で、外局の国家遺産局(Patrimonio Nacional)が管理している。
王宮は、マドリード中心部の西部バイレン通りにある。東はマンサナーレス川で、マドリード地下鉄オペラ駅が最寄りである。宮殿は、公的行事で使用される時を除き、一般公開されている。
歴史
現在、宮殿のある場所は、10世紀からマイリット(mayrit もしくはマジュリート)と呼ばれる要塞が建っていた。
マイリットは後ウマイヤ朝アミールムハンマド1世 (en) 治下に辺境防衛のため建設され、後ウマイヤ朝崩壊の後はタイファのトレド王国に継承された。1085年、マドリードがカスティーリャ王アルフォンソ6世によって陥落すると、大邸宅はカスティーリャ王に使用された。1329年に、カスティーリャ王アルフォンソ11世は初めてマドリードにコルテスを招集した。フェリペ2世は1561年に宮廷をマドリードに移した。
古いアルカサル(Antiguo Alcázar)は、この場所に16世紀に建てられた。アルカサルは、1734年12月24日に全焼したがフェリペ5世は同じ場所に新たな宮殿の建設を命じた。建設は1738年から1755年にかけて行われ、フィリッポ・ユヴァーラとジョヴァンニ・バッティスタ・サンチェッティによってベルニーニ風に建てられた。協力したのはベントゥラ・ロドリゲス、フランチェスコ・サバティーニ、スシメントである。1764年に新たな宮殿を占有したのは、カルロス3世であった。
現在
広大な宮殿は、ディエゴ・ベラスケス、ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ、アントン・ラファエル・メングス、ガスパリーニ、フアン・デ・フランデス、カラヴァッジオ、フランシスコ・デ・ゴヤといった芸術家の作品で贅沢に飾られている。歴史的に重要性のある王家の収集品のいくつかは宮殿内にあり、13世紀以降の兵器類を収める王立武具博物館、世界で唯一の完全なストラディヴァリウスの弦楽四重奏、タペストリー、磁器類、家具などを含む。
宮殿の西部分は、カンポ・デル・モーロという庭園である。1109年にここでムーア人首領アリ・ベン・ユースフとその部下たちが、キリスト教徒からマドリードとアルカサルを奪還しようとした故事にちなむ名前である。宮殿の東ファサードはオリエンテ広場とオペラハウスである王立劇場に面している。南側はアルマス広場という広い広場で、宮殿の狭い翼で囲まれている。同じく南側はアルムデナ大聖堂に面している。北側はサバティーニ庭園がある(建築家サバティーニにちなんだもの)。
アストゥリアス公フェリペ(のちの国王フェリペ6世)と民間出身の妃レティシアの結婚披露宴は2004年5月22日、宮殿の中央にある庭で行われた。
座標: 北緯40度25分5秒 西経3度42分50秒 / 北緯40.41806度 西経3.71389度
脚注
外部リンク
- 公式サイト (英語)
「王宮 (マドリード)」の例文・使い方・用例・文例
- 国王とその家族は王宮に住んでいる。
- 王宮付属礼拝堂.
- 王宮.
- 王宮の衛士
- 王宮などのほかに設けられた宮殿
- 王宮の内部
- 景福宮という,朝鮮の王宮のひとつ
- 紫禁城という中国の王宮
- 王宮
- 沖縄で最も人気がある観光スポットの1つ,首里城は,明治維新後の新しい日本政府の命令によって,最後の王が城を明け渡すまで,約450年間,琉球の王宮であった。
- パリの南西にあるベルサイユ宮殿は17世紀に国王ルイ14世によって建設され,1789年までは王宮だった。
- 彼は,捕(ほ)虜(りょ)になっていたアラムートの王女,タミーナ(ジェマ・アータートン)の助けを借りて,王宮から逃走する。
- バッキンガム宮殿は女王エリザベス2世の公式の王宮だ。
- この宮殿は11世紀に最初は王宮として建てられた。
- この塔はかつて,王宮として,また貴族や王族の囚(しゅう)人(じん)のための監獄として使われた。
- 即位式の後,皇太子ご夫妻は近くにある王宮でのレセプションに出席された。
- 6月12日,皇太子さまはマドリードの王宮でフェリペ皇太子とレティシア皇太子妃によって主催された晩(ばん)餐(さん)会(かい)に出席された。
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