タペストリー【tapestry】
タペストリー
【英】:TAPESTRY
【別称】:タピスリー
フランス語でタピスリー、英語でタペストリーと読む綴織壁掛(つづれおりかべかけ)のこと。製織方式は平織(ひらおり)の文様織。ふつう竪機(たてばた、経糸を垂直に張って織る機)を用い、経糸(たていと)に麻糸、緯糸(よこいと)に太い毛の染め糸(また絹や金銀糸なども)を用いる。緯糸を適当な長さに通して絵柄を織り出し、自由に絵画的主題を表現する。すでに古代エジプト時代から知られ、古代ローマやコプト、ペルシアなど東方諸国で制作された。西欧では、13〜14世紀にモニュメンタルな建築装飾として登場し、聖堂や城館の壁面や柱間を飾った。制作地は、フランドルから北フランスにかけてで、アラス、パリ、ブリュッセル、トゥルネ、ヴァランシエンヌ、ドゥエー、リールなどが名高い。代表作には、ニコラ・バターユ作「アンジェの黙示録」や「一角獣をともなった貴婦人」(パリ、クリュニー美術館)などがある。14〜15世紀が全盛時代で、16世紀からは次第に絵画化する。17〜18世紀には、フランス王立ゴブラン製作所が中心となって多くの作品が作られた。
タペストリー
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タペストリー(英語: tapestry)は、壁掛けなどに使われる室内装飾用の織物の一種。タペストリーは英語で、中期英語ではtapisseryといい、仏語のタピスリ(tapisserie)からきている。製織の技術では日本の
現代では織物に印刷したものもある。
製法
タペストリーは機を使って手作りされる。タペストリーは表面に出ている横糸によってカラフルな模様や絵柄を創り出す織物で、縦糸は完全に横糸に隠れて見えなくなっており、これが縦糸と横糸の両方が見える衣服などの布との違いである。タペストリーを織る場合、縦糸には普通木綿の糸や亜麻(リンネル)の糸が使われる。絵柄を作る横糸には羊毛(ウール)や木綿のほか、絹糸、金糸、銀糸などが使われる。
タペストリーは専門の職人が作るが、芸術家も制作する。日本では染織や工芸も芸術の一分野とみなされているが、西洋では純粋芸術(ファインアート)より一段低い応用芸術の一分野とされ、純粋芸術家が染織を直接手がけることが奇異の目で見られる場合があった。
カルトン(伊: cartone、蘭: karton)、あるいはタペストリー・カートゥーンと呼ばれる、厚紙に書くタペストリーの設計図を名のある芸術家が描き、これをもとに職人がタペストリーを織る分業体制をとる場合もある。名画を再現したタペストリーは長年にわたり多くの工房で作られてきたほか、織物独特の存在感・素材感に惹かれた芸術家が工房と共同してタペストリーを手がけている。パブロ・ピカソは『ゲルニカ』のタペストリーを複数製造し、そのうち一つが国際連合安全保障理事会議場前に飾られているほか、ジョアン・ミロや建築家ル・コルビュジエなどがタペストリーを職人と共同制作している。
タペストリーという言葉は、荒い格子の織目が見えるキャンバス地の布などに、織目を目印にして刺繍糸や毛糸で刺繍をほどこす、キャンバスワークやニードルポイントなどの刺繍に対しても誤って用いられることがある。キャンバスワークやニードルポイントによる刺繍の表面の見え方はタペストリーの表面によく似ているため、これらの刺繍も慣例的にタペストリーと呼ばれるようになった。
防音材としても用いられる。
歴史
綴織の歴史は古く、紀元前15世紀に没したエジプト第18王朝トトメス3世の墓からも鮮やかな麻の綴織が出土している。タペストリーはヘレニズム時代にはすでに存在しており、東西交易により広く流通していた。紀元前3世紀から紀元前2世紀に作られた古代ギリシア風のタペストリーの一部が、中国西部のタリム盆地のサムプルから発見されている。
ヨーロッパへは、11世紀に東方の産物として手織り絨毯が伝来したのがタペストリーの始まりとなる。華やかな絨緞を靴で踏むのは忍びないことから、壁にかけたところ、部屋の装飾になるだけでなく、壁の隙間風を防ぎ、断熱効果が認められた。ここからヨーロッパでの需要が高まり、国内で生産できるつづれ織りのタペストリーが生まれた[1]。タペストリーは14世紀初頭のヨーロッパで新たな発展を遂げた。最初はドイツやスイスで盛んに製造されていた。次第に生産地はフランスやベルギー、オランダへと拡大した。
14世紀から15世紀にかけて、フランス北部のアラスが織物で栄えた都市だった。特に上質のウールで織られたタペストリーはヨーロッパ各地の城や宮殿を飾るために輸出された。しかしフランス革命の混乱の中、アラスのタペストリーの多くは織り込まれた金糸を取り出すために焼かれ、今では数えるほどしか残っていない。現在でも、「アラス」は産地を問わず上等なタペストリーを指す言葉として使われている。
16世紀までにフランドルがヨーロッパのタペストリー生産の中心地となった。17世紀、フランドルではタペストリーは、議論の余地はあるにしても最も重要な生産物であり、この時代に作られた多くの種類のものが現存しており、模様や色彩の複雑な細部もはっきり残っている。
ゴブラン (Gobelin) がタペストリーの代名詞となったのはフランス王の力による。15世紀半ば、パリ市街のすぐ外でジャン・ゴブランとその家族が染織工場を始め、非常に成功した。芸術や産業を支援したアンリ4世は17世紀始めにフランドルから2人の職人を招いてゴブランの工場で王宮用壁飾りにするタペストリーの生産をさせ、ゴブラン織の名は有名になった。1662年、ルイ14世の時代に財務総監ジャン=バティスト・コルベールはゴブラン工場を王立家具工場の一部とし、画家シャルル・ルブランの運営と監督の下で多くの優れた画家に下絵を描かせたタペストリーを生産した。ゴブラン工場は17世紀末、政府の財政難で閉鎖したが、後にタペストリー生産を再開し現在に至っている。
タペストリーの機能とペスト
装飾的なタペストリーが中世ヨーロッパで隆盛を極めたのは、持ち運びできることにも理由がある。王たちや貴族たちは屋敷や別荘や旅先へタペストリーを丸めて持ち運び、到着すると壁に掛けて楽しんだ。キリスト教会では、特別な日などに聖書の場面を表したタペストリーを取り出して飾った。また冬の間、防寒用として熱を逃がさないために城の部屋の壁にタペストリーを飾ることもあった。こうしたことから、タペストリーは絵画以上に貴重な工芸品として取引されていた。
中世のキリスト教は、修道院の家畜を襲う狼を邪悪な動物として駆除していたため、ペスト菌を媒介するクマネズミが大量発生したが、そのクマネズミの格好の棲家が、壁に吊ったままの埃だらけのタペストリーだった。この14世紀のペスト蔓延を契機に、タペストリーより軽量で手入れの簡単な布や革が壁を覆うものとして好まれるようになり、製紙・印刷技術の発達によって15世紀半ばに壁紙が登場すると、その図柄の自由自在さから、その後は壁紙の需要が高まっていった[1]。
図像
西洋のタペストリーに描かれている絵柄は、伝統的な書物がもとになっている。特に『聖書』と、オウィディウスの『変身物語』は人気のある題材だった。宗教的な絵柄や神話的な絵柄以外では、ユニコーンや狩りのシーンが室内装飾用のタペストリーの題材には好まれた。
有名なタペストリー
- サンプルのタペストリー(The Sampul tapestry)
- 紀元前3世紀 - 紀元前2世紀に作られたと見られる。タリム盆地のサンプルで発見。ウルムチ博物館所蔵。
- ヘスティアのタペストリー(The Hestia Tapestry)
- 6世紀、東ローマ帝国支配下のエジプトで作られたもの。ヘスティア神が描かれている。ワシントンD.C.のダンバートン・オークス・コレクション所蔵。
- バイユーのタペストリー(The Bayeux Tapestry)
- ヘイスティングズの戦いが描かれている。実際にはタペストリーではなく、刺繍された布。
- アンジェの黙示録 (Tapisserie de l'Apocalypse)
- 14世紀、シャルル5世の画家だったジャン・ド・ブリュージュがヨハネの黙示録を題材に描いた下絵をもとに、ニコラ・バターユが制作したもの。現在アンジェのアンジェ城が所蔵。
- 貴婦人と一角獣(La Dame à la Licorne)
- 15世紀フランドルで作られた6枚からなるタペストリー。パリのクリュニー美術館(中世美術館)所蔵。
- The Hunt of the Unicorn
- 15世紀末に作られた7枚組のタペストリー。ニューヨークのメトロポリタン美術館分館、クロイスターズ所蔵。
- ラファエロのカルトン(Raphael Cartoons)
- ラファエロ・サンティが描いた、システィーナ礼拝堂の特別な儀典のときにのみ飾られるタペストリーの制作用下絵(カルトン)。カルトンはイギリス王室のロイヤル・コレクションとなりヴィクトリア&アルバート美術館で公開されており、タペストリーはヴァチカン美術館のピナコテーカ(絵画館)が所蔵し、現在も儀典時にはシスティーナ礼拝堂に飾られる。
- ヴァヴェル城のタペストリー(ヴァヴェル城のアラス織、Arrasy wawelskie)
- 16世紀にポーランドのヤギェウォ朝がヴァヴェル城を飾るために収集した、フランドルなどで作られたタペストリー群。
- 祇園祭・長浜曳山まつりの曳山を飾るタペストリー
- 16世紀 - 17世紀のブリュッセルで作られたタペストリー。トロイア戦争がモチーフとなっている。桃山時代から江戸時代初期にもたらされ、後に京都・大津町衆が購入したもの(来歴は諸説あり、詳細は不明)[2]。京都・大津ともに元は1枚のタペストリーだったものを江戸時代の職人が分割・貼り合わせを行った。
脚注
- ^ a b 図解入門業界研究最新インテリア業界の動向とカラクリがよーくわかる本本田榮二、秀和システム, 2010
- ^ “曳山のタペストリー ベルギーからの舶載品” (PDF). 公益財団法人 長浜曳山文化協会. 2014年10月24日閲覧。
参考文献
- 『染織の文化史』 藤井守一、理工学社、ISBN 4-8445-6302-5
外部リンク
- (eb1911) Tapestry article
- Tapestry, "A World History of Art"
- Bayeux Tapestry – Propaganda on cloth, "A World History of Art"
- Tapestry Design and Weaving Info
- The History of Gobelins
タペストリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/19 05:02 UTC 版)
国立中世美術館は特に6枚の連作タペストリー『貴婦人と一角獣』を所蔵していることで知られるが、他にも『荘園の暮らし』、『聖ステファノ伝』などの大きなタペストリーがある。パリでデザインされ、15世紀末のフランドルで織られたこのタペストリーは、1841年、歴史的記念物監督官であった小説家のプロスペル・メリメによりブーサック城(現在のクルーズ県)で発見された。生地を守るために光量を落とした円形の特別室に展示された6枚のタペストリーはすべて千花模様(ミルフルール)を背景に貴婦人と一角獣が描かれ、うち5枚はそれぞれ「視覚」「聴覚」「味覚」「嗅覚」「触覚」の寓意を示している。最後の1枚は「我が唯一の望みに」と題されているが、「我が唯一の望み」とは何なのか、その意味はいまだ謎に包まれている。 「貴婦人と一角獣」も参照 触覚 味覚 嗅覚 聴覚 視覚 日本では2013年4月24日から7月15日まで国立新美術館(東京)で、次いで2013年7月27日から10月20日まで国立国際美術館(大阪)でこの作品を展示する「フランス国立クリュニー中世美術館所蔵《貴婦人と一角獣》」展が行われた。
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タペストリー
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ペリーは15m×3mのタペストリーである"The Walthamstow Tapestry"を2009年に作った。大きな織物のタペストリーで、生から死までの人生の段階にいる大きな人物の周りに多数のブランド名があらわれている。 ペリーは2015年に「ハウス・フォー・エセックス」用に大規模な一対のタペストリーを造っており、これは"The Essex House Tapestries: The Life of Julie Cope"というタイトルであった。
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タペストリー
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タペストリーは、他のやり方では頻繁にできない、より大きな寸法と色での作業をするチャンスを与えてくれた (「こんなに大きくできるとは思ってもみませんでした」)とキキ・スミスは述べている。キキ・スミスは、2010年代初頭から、ファインアートスタジオのMagnolia Editionsから発行される9x6フィートの12個のジャカード織りのタペストリーを作っている。2012年、ニューバーガー・ミュージアム・オブ・アートで、これらの織り版の3つのシリーズの展示している。2019年の早い時期、イタリアのフィレンツェにあるピッティ宮殿で「道路で見たもの(What I saw on the road)」展示の一部として12個のタペストリー全てが一緒に展示した。
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タペストリー
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タペストリー
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/17 10:24 UTC 版)
「ベルナールト・ファン・オルレイ」の記事における「タペストリー」の解説
当時のタペストリーは絵画よりも高く評価されており、金糸銀糸が織り込まれることもある高価な工芸品だった。単なる装飾としてだけではなく、宮殿や教会内陣の広く、むき出しで冷たい感じのする壁を隠すことができる付加価値も併せ持っていたためである。ベルナールトは若年のころからタペストリーのデザインを手掛けており、1530年以降になると絵画制作はほとんど行わず、タペストリーとステンドグラスのデザイン画に専念するようになった。 ベルナールトが手掛けた最初期のデザイン画と考えられているのは、フランス・ファン・タクシスの依頼によって1516年から1518年に描かれた、ノートルダム・デュ・サブロン教会のタペストリーをデザインした4枚の下絵である。それらのうちの1枚にはパトロンのファン・タクシスとマクシミリアン1世と皇帝3世の2人の神聖ローマ皇帝が描かれている。これはファン・タクシスがブリュッセルと他の帝国領での郵便制度の独占権を与えられたことへの暗喩となっている。二次元上に多くのモチーフが過密に表現されたこれらの作風は、当時のタペストリーの伝統的なデザインだった。 1520年代からベルナールトがデザインするタペストリーは、現在マドリード王宮やいくつかの美術館に散逸しているキリストの受難を表した一連のタペストリーや、ワシントン・ナショナル・ギャラリーが所蔵する『哀歌』に見られるように、伝統的なものからイタリア・ルネサンスの影響を受けた彼の絵画に似たものになっていった。ピーテル・デ・パンネメイカーらの職人が仕上げたこれらのタペストリーにはラファエロが描いたタペストリーの下絵や、デューラーの人物表現からの影響が明確に見られる。デューラーがベルナールト邸に滞在していたときに、タペストリーのデザインについて二人が話をした可能性がある。ベルナールトは聖ガウゲリクス教会の聖セバスティアヌス組合の会員になっているが、この組合会員の半数は専門の織物職人だった。 ベルナールトは晩年の1521年から1530年にかけて、カール5世か他の帝国宮廷人の依頼で、おそらくはヤン・ヘーテルを助手として12枚のタペストリーの下絵を描いた。現在ルーブル美術館が所蔵する『マクシミリアンの狩猟』と呼ばれるこれら一連のタペストリーは、12枚がそれぞれ12カ月に対応しており、ベルナールトがデザインした中でもっとも有名な作品となっている。制作には2年の歳月と16人の織物職人が必要で、ブリュッセル近郊の広大な森林か、ソワーニュの森で行われた狩猟を表現している。ベルナールトの下絵に描かれている厳密な構成は、躍動感にあふれたものとなっている。写実的で表現力に富み、細部まで詳細に描かれた風景で構成されたこの作品は、ベルナールトの創造力が見事に発揮されたものとなっている。 ブレダ領主ヘンドリック3世・ファン・ナッサウ=ブレダの依頼で1528年から1530年ごろに作成された有名なタペストリーも存在した。ナッサウ家の歴代当主を賛美したタペストリーで、1760年の火災で焼失してしまったが下絵は現存しており、ニューヨークのメトロポリタン美術館が所蔵している。 7枚からなる『パヴィアの戦い』も有名なタペストリーで、現在はナポリの国立カポディモンテ美術館に展示されており、7枚の下絵はルーブル美術館が所蔵している。 『天球を持ち上げるヘラクレス』は1530年にポルトガル王ジョアン2世の求めで制作されたタペストリーで、現在はマドリード王宮で見ることができる。天球はポルトガル王家のシンボルだった。
※この「タペストリー」の解説は、「ベルナールト・ファン・オルレイ」の解説の一部です。
「タペストリー」を含む「ベルナールト・ファン・オルレイ」の記事については、「ベルナールト・ファン・オルレイ」の概要を参照ください。
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