ヤギェウォ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/11/12 02:56 UTC 版)
ヤギェウォ朝 | |
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国 | ![]() ![]() ![]() ![]() |
主家 | ゲディミナス朝 |
創設 | 1386年 |
家祖 | ヴワディスワフ2世ヨガイラ |
最後の当主 | アンナ |
滅亡 | 1572年 |
ヤギェウォ朝(ポーランド語: Dynastia Jagiellonów)は、ポーランド、リトアニア、ボヘミアおよびハンガリーの王朝。ヤゲウォ朝、ヤギェロ朝、ヤゲロ朝とも呼ばれる。1386年にリトアニア大公国の大公ヨガイラにより、ハンガリー王をも兼ねたポーランド王ルドウィク1世(ハンガリー王としてはラヨシュ1世)を継承した女王ヤドヴィガ(在位:1384年 - 1399年)との結婚により成立した。
王朝の年代は各君主位によって異なるが、それぞれ以下の通りになる。
- ポーランド王:1386年 – 1572年
- リトアニア大公:1377年 – 1392年、1440年 – 1572年
- ハンガリー王:1440年 – 1444年、1490年 – 1526年
- ボヘミア王:1471年 – 1526年
歴史
ポーランドの歴史 | ||
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先史時代 | ||
ピャスト朝 10世紀–1370年 |
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プシェミスル朝 1300年-1306年 | ||
ポーランド・アンジュー朝 1370年-1399年 | ||
ヤギェウォ朝 1399年-1572年 | ||
ポーランド・リトアニア共和国(第1共和制)1569年-1795年 | ||
ポーランド分割 1772年、1793年、1795年、1815年 | ||
ワルシャワ公国 1807年-1813年 | ||
ポーランド立憲王国 1815年-1867年 | クラクフ共和国 1815年-1846年 | ポズナン大公国 1815年-1848年 |
第1次世界大戦 1914年–1918年 | ||
ポーランド摂政王国 1916年-1918年 | ||
ポーランド共和国(第2共和制)1918年–1939年 | ||
第2次世界大戦 1939年–45年 | 亡命政府 | |
ポーランド総督府 1939年-45年 | ||
ポーランド人民共和国 1952年–1989年 | ||
ポーランド共和国(第3共和制)1989年-現在 | ||
年表 | ||
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ピャスト朝が1370年にカジミェシュ3世の死により途絶えると、アンジュー朝のハンガリー王ラヨシュ1世が選ばれポーランド王ルドヴィクとして即位した。1382年のルドヴィクの死後、ポーランド王位を継承した11歳の末娘ヤドヴィガは、1386年にリトアニア大公ヤギェウォ(ヨガイラ)と結婚した。ヤギェウォはキリスト教に改宗してヴワディスワフ(2世)を名乗り、ヤギェウォ朝を築いた。1387年、リトアニア全土がキリスト教に改宗した。1399年、ヤドヴィガの死によりヴワディスワフ2世による単独の統治が始まり、以後35年以上継続した。その間に、ポーランド・リトアニア合同の土台が築かれた。ヴワディスワフ2世は己の名前を帯びたヤギェウォ朝の創始者である一方、異教徒としてのヨガイラはリトアニア大公国を建てたゲディミナス朝の後継者であった。王朝は両国を1572年まで支配し、中世後期および近世の中・東欧で最も影響力のある王朝の一つとなった。
ヤギェウォ朝からは後に、ベラルーシの君主やボヘミア、ハンガリーの王位に即く者も現れたが、1572年に断絶した。
ヤギェウォ朝のポーランド王
ヴワディスワフ3世、ヤン1世、アンナ以外はリトアニア大公を兼ねた(在位期間は重なるが、必ずしも一致しない)。
- ヴワディスワフ2世(Władysław II Jagiełło, 1386年 - 1434年)
- ヴワディスワフ3世(Władysław III Warneńczyk, 1434年 - 1444年)
- カジミェシュ4世(Kazimierz IV Jagiellończyk, 1447年 - 1492年)
- ヤン1世(Jan I Olbracht, 1492年 - 1501年)
- アレクサンデル(Aleksander Jagiellończyk, 1501年 - 1506年)
- ジグムント1世(Zygmunt I Stary, 1506年 - 1548年)
- ジグムント2世(Zygmunt II August, 1548年 - 1572年)
- アンナ(Anna Jagiellonka, 1575年 - 1586年)
ヤギェウォ朝のハンガリー王
- ウラースロー1世(I. Ulászló, 1440年 - 1444年)=ヴワディスワフ3世
- ウラースロー2世(II. Ulászló, 1490年 - 1516年)
- ラヨシュ2世(II. Lajos、1516年 - 1526年)
系図
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ピャスト家 |
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ゲディミナス家 |
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アンジュー家 (ハンガリー・アンジュー朝) |
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ヴワディスワフ1世 P |
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ゲディミナス L |
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カーロイ1世 H |
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エルジュビェタ |
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カジミェシュ3世 P |
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アルドナ |
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アルギルダス L |
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ケーストゥティス L |
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ルクセンブルク家 |
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ラヨシュ1世 H,P |
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ボグスワフ5世 スウプスク公 |
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エルジュビェタ |
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カール4世 B,K |
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エルジュビェタ |
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ヴワディスワフ2世 (ヨガイラ) L,P |
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スキルガイラ L |
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シュヴィトリガイラ L |
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ヴィータウタス L |
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ジーギマンタス1世 L |
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ハプスブルク家 (レオポルト系) |
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ハプスブルク家 (アルブレヒト系) |
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ジギスムント H,B,K |
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マーリア H |
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ヤドヴィガ P |
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アルブレヒト2世 H,B,O,K |
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エリーザベト |
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ヴワディスワフ3世 P,H |
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ラディスラウス・ポストゥムス H,B,O |
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エリーザベト |
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カジミェシュ4世 L,P |
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ウラースロー2世 H,B |
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ヤン1世 P |
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アレクサンデル L,P |
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ジグムント1世 L,P |
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ヴァーサ家 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
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フェルディナント1世 H,B,O,K |
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アンナ |
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ラヨシュ2世 H,B |
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ジグムント2世 L,P |
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サポヤイ・ヤーノシュ (H) |
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イザベラ |
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アンナ P |
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ステファン・バートリ L,P |
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カタジナ |
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ヨハン3世 S |
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マクシミリアン2世 H,B,O,K |
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エリーザベト |
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カタリーナ |
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ヤーノシュ・ジグモンド (H) |
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ジグムント3世 L,P,S |
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ルドルフ2世 H,B,O,K |
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マティアス H,B,O,K |
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ヴワディスワフ4世 L,P |
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ヤン2世 L,P |
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- L:リトアニア大公
- P:ポーランド王
- H:ハンガリー王
- B:ボヘミア王
- S:スウェーデン王
- K:神聖ローマ皇帝
- O:オーストリア公・大公
脚注
関連項目
ヤギェウォ朝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 23:12 UTC 版)
王朝が変わり、ルートヴィクの時代に入ると王の権威は衰えた。ルートヴィク死去後の二年間の空位や立場の弱い女王がこれを更に加速させる。1385年、ポーランド女王ヤドヴィガとリトアニア大公ヨガイラ(ポーランド語名ヤギェウォ)が聖職者とバロン、シュラフタなどの意志のもと結婚し、ポーランド王国とリトアニア大公国は人的同君連合をした。ポーランド=リトアニア連合を形成した(クレヴォの合同)。1399年にヤドヴィガ女王が没するとヤギェウォがポーランド王に即位し、以後ポーランド、リトアニア、ボヘミア王国およびハンガリー王国の王朝であるヤギェウォ朝がポーランドを統治することになった。1410年、ポーランド=リトアニア連合はグルンヴァルトの戦いでドイツ騎士団を討った。 1414年、コンスタンツ公会議ではグルンヴァルトの戦いの戦後処理について話し合われ、会議では当時異教徒の国であったリトアニアとキリスト教徒の国であるポーランド王国が同盟して、キリスト教徒のドイツ騎士団と戦争をした点が大問題となり、これについてポーランドに対してドイツ騎士団側からの激しい非難があった。ドイツ騎士団は「異教徒と同盟してキリスト教徒のドイツ騎士団を討伐したポーランドの行動は罪であり、この罪によって、ポーランド人は地上から絶滅されるべきである」と主張した。ポーランド全権でクラクフ大学校長であったパヴェウ・ヴウォトコヴィツ(ラテン語名:パウルス・ウラディミリ)は「リトアニア人のような異教徒であっても我々キリスト教徒とまったく同じ人間である。したがって彼らは自らの政府を持つ権利(国家主権)、平和に暮らす権利(生存権)、自らの財産に対する権利(財産権)を生まれながらに保有する。よってリトアニア人がこの権利を行使し、自衛するの(自衛権)はまったく正当である」と述べた。教皇マルティヌス5世は異教徒の人権についての決定はしなかった。 1430年にリトアニア大公のヴィータウタス(ポーランド語名:ヴィトルト)が没すると、ポーランド=リトアニア連合内はよりポーランド王の権威と権限を強め、事実上ポーランド王国の支配下に入り、すべてのリトアニア貴族はポーランド語とポーランドの習慣を身につけてポーランド化していった。ただし宗教や宗派については、ある場所ではローマ・カトリック、ある場所ではプロテスタント、ある場所では正教会、ある場所(リプカ・タタール人の共同体)ではイスラム教、といった具合にそれぞれの地方共同体の伝統的な宗教や宗派を守っていることが多かったとされる。 1440年、ドイツ騎士団領内の諸都市で、ポーランド王とプロイセン連合を結成し、ポーランド王国とプロイセン連合はドイツ騎士団との間で再び戦争となった。1466年、第二次トルンの和約によりドイツ騎士団領は敗戦した。プロイセンはポーランド王国の封土となり、ポーランド=リトアニア連合を宗主国とする属国となり、多くの政治的権限がポーランドに移された。ポーランドはこの第二次トルンの和約に基づき、ポーランド国会(セイム)への代議員を送ってポーランドを構成するすべての地域を扱う政治(いわゆる国政)に直接参加するようドイツ騎士団に命じたが、騎士団は拒否した。ヴァルミア司教の叙任をめぐって、これをポーランドのグニェズノの大司教が裁可するが、ドイツ騎士団は独自の候補を擁立して意義を申し立て騎士団側の候補者をヴァルミア司教にとし、今後グニェズノ大司教が主権を握ることで和解した。 1543年、トルン出身でクラクフ大学卒業生のミコワイ・コペルニク(ラテン語名:ニコラウス・コペルニクス)は著書『天球の回転について(De revoltionibus orbium coelestium)』を出版、地動説を提唱した。彼は父親がクラクフ公国出身のポーランド人で銅の取引業を営み、母親はドイツ人であった。母の実家のあるトルンで生まれ、父母を早く亡くしたあとは母方の叔父でヴァルミア司教のルーカス・ヴァッツェンローデ(前の段落参照)に育てられた。なお、クラクフ大学におけるコペルニクスの恩師である人気教授アルベルト・ブルゼフスキは月の軌道計算で世界的に名を挙げ、月が楕円軌道を描いていること、そして常に同じ面を地球に向けていることを指摘している。 1569年、国王ジグムント2世アウグストの幅広い尽力により、ポーランドはリトアニアを併合(ルブリン合同)してポーランド王を統一君主とする物的同君連合で制限つきながらも議会制民主主義を採る「ポーランド=リトアニア共和国」(第1共和国)となり、欧州の広大な国のひとつとして君臨した。 ジグムント2世アウグストの死後、ポーランド=リトアニア連合王国はすべてのシュラフタ(ポーランド貴族)が参加する選挙(国王自由選挙)によって国王を決定する「選挙王政」をとる貴族共和国になった。ポーランド貴族の人数は常に人口の1割を超えており、そのすべてに平等に選挙権が付与されていた。アメリカ合衆国が18世紀末に独立してからしばらくの間、選挙権を持つ者が合衆国全人口の1割に満たなかったことを考慮すると、当時のポーランド=リトアニア連合王国ではのちのアメリカ合衆国に比べ選挙権を持つ国民の割合が大きかったことになる。 1573年、すべてのシュラフタが1人1票を持つというかなり民主的な原則で行われることになったポーランドの国王自由選挙で選ばれた最初のポーランド国王はフランス王アンリ2世とイタリア人の王妃カトリーヌ・ド・メディシスの息子であるフランス人ヘンリク・ヴァレジ(アンリ、のちのフランス王アンリ3世)であった。しかし国王戴冠の条件として署名を余儀なくされた「ヘンリク条項」によりポーランドで事実上の立憲君主制(シュラフタ層の大幅な権力拡大および王権の大幅な制限)が成立したため、バイセクシュアルであった自身の性指向がポーランドでは以前からずっと白い目で見られていたことや、ジグムント2世アウグストの妹ですでに年老いていたアンナを女王でなく国王とした政略結婚が求められたこともあり、ポーランドでの生活を窮屈と感じ嫌気が差したヘンリクは1574年6月18日、突然フランスへと逐電してしまう。
※この「ヤギェウォ朝」の解説は、「ポーランド」の解説の一部です。
「ヤギェウォ朝」を含む「ポーランド」の記事については、「ポーランド」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
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