マーリア_(ハンガリー女王)とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > マーリア_(ハンガリー女王)の意味・解説 

マーリア (ハンガリー女王)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/12/17 23:21 UTC 版)

マーリア
Mária
ハンガリー女王
在位 1382年 - 1385年1386年 - 1395年

出生 1371年
ハンガリー王国ブダ
死去 1395年5月17日
ハンガリー王国、ブダ
埋葬 ハンガリー王国オラデア
配偶者 神聖ローマ皇帝ジギスムント
家名 アンジュー家
父親 ラヨシュ1世
母親 エリザベタ・コトロマニッチ
テンプレートを表示

マーリアハンガリー語: Mária, 1371年 - 1395年5月17日)は、ハンガリー女王(在位:1382年 - 1385年1386年 - 1395年)。ハンガリーとポーランドの王ラヨシュ1世の次女で、母はその2番目の妃エルジェーベト(エリザベタ・コトロマニッチ)。ポーランド女王ヤドヴィガの姉である。

生涯

父王の死により11歳足らずで女王として即位、母エルジェーベトが摂政となったが、実権は宮宰として権力を振るってきたミクローシュ・ガライが握った。

1385年ルクセンブルク家ジギスムント(後の神聖ローマ皇帝、ハンガリー名ジグモンド)と結婚した。同年12月、同族のナポリカルロ3世(ハンガリー王カーロイ2世)に迫られて一時王位を奪われたものの、翌1386年2月24日にエルジェーベトの策謀でカーロイが殺害されたことで復位した。

しかしカーロイの殺害により、その地盤でもあった王国南方のボスニア地方で貴族ホルヴァート兄弟の叛乱が勃発、政情が不安定化した。ガライ、エルジェーベト、マーリアらは叛乱の説得のためボスニア地方に向かったが、その途上の7月25日、ディアコヴァルで奇襲を受け、ガライは殺害、マーリアとエルジェーベトはホルヴァート一派に捕らわれ、ノヴィグラード(現クロアチア領)の要塞に幽閉された。エルジェーベトは1387年1月16日に幽閉先で殺害され、マーリアにも身の危険が及ぶが、最終的には6月4日に釈放された(一説には、これらの奇襲・幽閉劇はマーリアらと折り合いが悪かった夫ジギスムントが仕掛けたとも言われる)。

釈放後は、夫ジギスムントがハンガリー王に即位して実権を握り、マーリアは象徴的な地位にとどまった。

1395年に死去し、ジギスムントとの間に子供がなかったため、ハンガリーにおけるアンジュー家の血筋は断絶した。

外部リンク

先代
ラヨシュ1世
ハンガリー女王
1382年 - 1385年
次代
カーロイ2世
先代
カーロイ2世
ハンガリー女王
1386年 - 1395年(復位)
1387年からジグモンドと共同統治
次代
ジグモンド(単独統治)



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「マーリア_(ハンガリー女王)」の関連用語

マーリア_(ハンガリー女王)のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



マーリア_(ハンガリー女王)のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのマーリア (ハンガリー女王) (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS