ボスニアとは? わかりやすく解説

ボスニア【Bosnia】

読み方:ぼすにあ

ボスニア‐ヘルツェゴビナ北部地方。ボズナ。


ボスニア

名前 Bosnia

ボスニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/27 16:03 UTC 版)

ボスニア (Bosnia) とヘルツェゴビナ (Herzegovina) の大まかな地域範囲図

ボスニア (Bosnia) は、

名称

ボスニアという名前は、この地を流れるボスナ川に由来する。セルビア語ボスニア語クロアチア語ではボスナ(БоснаBosna)。

歴史

先史時代

Badanj Cave(紀元前16,000年 - 12,000年)やDanilo culture(紀元前4700年 – 3900年)が知られている。

古代

イリュリア人イリュリアがあったが、共和政ローマによって滅ぼされ、当初はイリュリア属州紀元前167年 - 10年)が置かれたが、皇帝属州ダルマチア紀元前32年 - 6世紀)と皇帝属州パンノニアが分割された。ローマ帝国が東西に分裂した後、東ローマ帝国の皇帝ユスティニアヌス1世が没すると、スラヴ人が侵入を開始した。

中世

6世紀末から7世紀にかけて現在の住人の祖先にあたるスラヴ人が定住した。Bosanska kneževina(600年 – 1137年)。

12世紀以降ボスニアはハンガリーの支配下に入るが、ハンガリーの支配は名目的で、実際にはボスニアの貴族が太守や総督を意味する「バン」という称号を名乗り支配していた(バンによるボスニア統治時代)。1322年にバンとなったスチェパン・コトロマニッチ英語版の時代にはヘルツェゴヴィナをその版図に収めた。

14世紀後半のスチェパン・トヴルトコ1世英語版の時代に最盛期を迎えると、1377年には称号もそれまでの「バン」から「王」へと改め、名実ともに王国となった(ボスニア王国1377年 - 1463年)。

オスマン帝国

ボスニア王国は1428年オスマン帝国の属国となり、1463年には国王スチェパン・トマシェヴィチが廃されオスマン帝国の直接支配を受けるようになる。オスマン帝国時代にはこの地域は、ボスニア州英語版(1580年 – 1867年、首府はトラヴニク)やボスニア州英語版(1867年 – 1908年)とされており、近隣のヘルツェゴヴィナ州英語版(1833年 – 1851年)、ズヴォルニク県英語版と共に一つの州を形成していた。ボスニアではかつてキリスト教ボゴミル派の信仰が盛んであったが、オスマン帝国による統治のもとで徐々にイスラームへの改宗者が増え、現在ボシュニャクサンジャクも参照)と呼ばれる集団の原型が形成されることとなった(ただし、ボゴミル派の信者のすべてがムスリムになったわけではなく、正教会カトリック教会へ宗旨替えをする者も相当数存在したといわれる。結果、現在ではボスニアにおけるボゴミル派信仰は消滅している)。

長年にわたるオスマン帝国による統治が多くの改宗者を生む一方で、ボスニアには正教徒やカトリックのキリスト教徒も多く存在し、またユダヤ教徒のコミュニティも存在していた。社会階層としてはムスリム(イスラム教徒)は地主に多く、キリスト教徒は小作人に多かったといわれる。このように各宗教が混在した状況ではあったが、オスマン帝国支配下では宗教別の共同体(ミッレト)による自治が認められていたこともあり、宗教的な対立は比較的少なく、各宗教は共存関係にあった。ただし、地主と小作人の経済的な対立が宗教対立に変化することはあった。

ナポレオン戦争期になると、1804年スメデレヴォ・サンジャクセルビア語版英語版(現代の中央セルビア英語版)で第一次セルビア蜂起英語版が勃発。1809年にグラディシュカ地域でボスニア州英語版(1580年 – 1867年)の反オスマン帝国蜂起のヤンチッチの反乱セルビア語版英語版セルビア語: Машићка буна)が起こり、経済宗教などセルビア人の権利ははく奪された。 1831年ボスニア蜂起英語版(1831年 – 1833年)と呼ばれる大規模な反乱が発生している。

1875年ヘルツェゴヴィナ蜂起が勃発し、それに引き続くモンテネグロ・オスマン戦争英語版露土戦争の結果締結されたサン・ステファノ条約では、ボスニアに自治権が付与されたものの、その後のベルリン会議によって、モンテネグロ公国セルビア王国の独立が認められた一方で、オーストリア・ハンガリー帝国共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナCondominium of Bosnia and Herzegovina1878年 - 1918年)を軍事占領することとなった。占領当初、ムスリムを主体とする大規模な抵抗が起きたが、占領軍は1878年末までにこれを鎮圧した。これにより1878年以降はオスマン帝国の名目上の主権のもと、オーストリア・ハンガリー帝国が施政権を行使する体制が1908年まで続くが、地域内に多くのセルビア人が居住することを理由にセルビア王国はボスニアにおける領有権を主張し続けていた。

オーストリア・ハンガリーによる併合

オーストリア・ハンガリー帝国の占領下の共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナは帝国の大蔵大臣(共通蔵相)の管轄下に置かれ、ムスリム地主の勢力を温存する政策が採られた。1908年10月6日共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナはヘルツェゴビナと共に正式にオーストリア・ハンガリー帝国に併合された(ボスニア・ヘルツェゴビナ併合)。併合後も占領時代同様にオーストリアにもハンガリーにも属さず、共通蔵相の管轄下に置かれていたものの、1910年には帝国内の他地域と同様に憲法が適用されるようになり、選挙も行われた。

バルカン戦争1912年 - 1913年)が勃発し、これ以後第一次世界大戦にかけてムスリムがオスマン帝国領に移住する「Muhacir問題」が起こった。また、戦後には、セルビア人のナショナリズムが高揚した。青年ボスニア党英語版ボスニア語: Mlada Bosna ムラダ・ボスナ)のガヴリロ・プリンツィプサラエボ事件1914年)を起こして第一次世界大戦が勃発した。

第一次世界大戦

こうして各宗教がそれぞれに政治組織を結成し、宗教に基づいた民族意識の形成が進みつつある中で、ボスニアの領有権を巡るオーストリアセルビア間の紛争が第一次世界大戦へと発展する。やがてオーストリア=ハンガリー帝国は崩壊を迎え、1918年10月29日南スラヴ人を主体とするスロベニア人・クロアチア人・セルビア人国が成立する。その領域には、帝国内のスロベニア人が居住する諸邦やクロアチア=スラヴォニア王国ダルマチア王国とともに共同統治国ボスニア・ヘルツェゴヴィナも組み込まれた。そして同年12月1日、南スラヴの国民国家建国のためセルビア王国モンテネグロ王国と合流し、セルビアカラジョルジェヴィチ王朝のもとセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(1918年 - 1943年、1929年にユーゴスラビア王国に改称)が誕生した。

戦間期

1921年に即位したアレクサンダル1世は、セルビア人とクロアチア人の対立問題を抱えていた。アレクサンダル1世は、セルビア人の権力を強化してクロアチア人の不満を抑え込もうとした。1928年8月8日にはスチェパン・ラディチが暗殺され、1929年に国王アレクサンダル1世クーデターAtentat u Narodnoj skupštini)を起こして独裁政権を樹立し、ユーゴスラビア王国と改めた。1934年には、マルセイユでウスタシャ内部マケドニア革命組織の支援を受けたともいわれるヴラド・チェルノセムスキー英語版によって、アレクサンダルが暗殺された。

第二次世界大戦

1939年にユーゴ政府は、クロアチア自治州セルビア・クロアチア語版英語版を作ることで、クロアチア人の不満を抑え込もうとした。1941年4月1日にクロアチア人民族主義者がザグレブで蜂起して「クロアチア独立国」(1941年 - 1945年)の建国宣言を発した。同月、ナチス・ドイツユーゴスラビア侵攻バルカン戦線 (第二次世界大戦)の一つ)が始まり、ユーゴスラビア王国が崩壊してボスニアはナチス傀儡のクロアチア独立国に併合され、中央セルビアにもナチス傀儡のセルビア救国政府1941年 - 1944年)が設立された。同年、ウスタシャに対抗するセルビアの抵抗組織「チェトニック」が設立されたものの、11月にはセルビア救国政府と協力関係になり、チトーパルチザン部隊やクロアチア人と戦った。

1943年11月25日ボスニア・ヘルツェゴビナ人民解放国家反ファシスト委員会が設立された。 1943年11月29日ユーゴスラビア民主連邦が建国。1945年4月6日にサラエヴォは、チトーによってナチスによる占領から解放された。ドイツの降伏に伴い、クロアチア独立国も崩壊して独立は取り消され、ボスニアもユーゴスラビアに戻され、1945年4月26日ボスニア・ヘルツェゴビナ人民共和国となった。1946年にはユーゴスラビア連邦人民共和国となる。

冷戦期

1963年にはユーゴスラビア社会主義連邦共和国に改称され、それに伴い「ボスニア・ヘルツェゴビナ社会主義共和国」となった。

1990年ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国1990年 - 1992年)。1991年ユーゴスラビア紛争が勃発。1992年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国はユーゴスラビアからの独立を宣言した。

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争

1992年にボスニア・ヘルツェゴビナ共和国は国内のセルビア人への攻撃を米国に求め、米国に断られた。ボスニアは薦められるままに米国の独立系PR会社のルーダー・フィン社英語版Ruder Finn)を雇い、PR会社はマスコミの喜びそうな話を次々と流した。例えば、数名の死体の映像をもとに「民族浄化 (ethnic cleansing)」という表現を多様、さらに変電所を囲むフェンス前に立つやせた男性の写真をもとに「強制収容所」と主張、「ナチスによる民間人への大量虐殺同様の残虐非道な状態だ」というイメージを作りあげた。

実際には、1994年4月10日から4月11日にかけて、米国主導の北大西洋条約機構(NATO)によるセルビア人勢力への小規模な空爆が実施された。劣化ウラン弾をあびたのは、セルビア側である。1994年8月、再空爆。11月21日および23日にNATOによる3度目の空爆。

ジミー・カーターの仲介で、1995年1月1日から4ヶ月の停戦。

1995年スレブレニツァの虐殺7月13日 - 7月22日)。米国主導のNATO空爆1995年8月30日 - 9月20日)が実施された。12月14日デイトン合意で、クロアチア人・ボシュニャク人のボスニア・ヘルツェゴビナ連邦とセルビア人のスルプスカ共和国が成立。

出典

関連項目


ボスニア

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/25 15:33 UTC 版)

カファナ」の記事における「ボスニア」の解説

ボスニア・ヘルツェゴビナには最もトルコに近い、純粋なカファナ残っているといわれている。そうした店では食べ物出されず、元来トルココーヒー酒類の提供のみがなされる食べ物を出す店はチェヴァブジニツァ(ćevabdžinica)、アシュチニツァ(činica)、ブレグジニツァ(buregdžinica)などである。 ボスニア・ヘルツェゴビナ都市部中心に多くムスリム暮らしており、オスマン帝国時代から大きく変わっていない昔ながらカファナみられるこうした店には、地元老人観光客訪れるが、このような店は数を減らしてきている。 街の中心部に立つ「街のカファナ」は外装現代化され、店の名前なども西洋化されている。その他の低価格カファナ多く若者ターゲットとし、「カファナ」の語を避け傾向にある。しかし、ステレオタイプ的なカファナ一部高校生学生労働者たちにも人気があり、彼らは度々、安く酒が飲めるこうしたカファナ訪ればか騒ぎ興じている。

※この「ボスニア」の解説は、「カファナ」の解説の一部です。
「ボスニア」を含む「カファナ」の記事については、「カファナ」の概要を参照ください。

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