ユーゴスラビア王国
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ユーゴスラビア王国(ユーゴスラビアおうこく、セルビア・クロアチア語・スロベニア語:Kraljevina Jugoslavija / Краљевина Југославија)は、第一次世界大戦の終結(ハプスブルク帝国とオスマン帝国の解体消滅)に伴い、民族自決原則のもとに建国された南スラヴ人(ブルガリア人を除く)の統一国家である。「ユーゴスラヴィア」は「南スラヴ」を意味する[1]。独立時の正式名称はセルビア人・クロアチア人・スロヴェニア人王国(セルビア・クロアチア語:Kraljevina Srba, Hrvata i Slovenaca / Краљевина Срба, Хрвата и Словенаца、スロベニア語:Kraljevina Srbov, Hrvatov in Slovencev、略称:SHS王国 Kraljevina SHS / Краљевина СХС)だった。1929年、国王独裁の開始時にユーゴスラヴィア王国へと改称する。バルカン半島の西部から中央ヨーロッパにかけての地域を領土とし、1918年から1941年まで存続した。政体は立憲君主制の王国。国王が亡命した1941年に事実上(公式にはユーゴスラビア連邦人民共和国成立前の1945年)滅亡した。 第二次世界大戦後のユーゴスラビア連邦人民共和国と対比してそれぞれ「第一のユーゴ」、「第二のユーゴ」という通称が使われた[2]。以下、本稿でもこの略称を用いる。
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- ^ a b 柴1998 p.252
- ^ 訳語は柴宜弘の著作(例:「南スラヴ統一主義とユーゴスラヴィア建国」柴宜弘・石田信一編『クロアチアを知るための60章』明石書店、2013年)による。
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ユーゴスラビア王国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/23 02:48 UTC 版)
「ボスニア・ヘルツェゴビナ国有鉄道IVa5形蒸気機関車」の記事における「ユーゴスラビア王国」の解説
ボスニア・ヘルツェゴビナ地域は1914-18年の第一次世界大戦およびオーストリア=ハンガリー帝国の解体を経て1918年に成立したセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国に属することとなり、これに伴い、ボスニア・ヘルツェゴビナ地域鉄道の路線は同国国鉄であるセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国鉄道の路線となってIVa5形も同国鉄の所有となって引続きボスニア・ヘルツェゴビナ地方で運行されるだけでなく、セルビア、クロアチアの760mm軌間の路線でも運行されるようになった。このことと、第一次世界大戦による鉄道網の荒廃と機関車不足に対応するため、同国鉄でも引続いて同形式を増備することとなり、まず1923年にはRU番台24機が導入されている。この機体は第一次世界大戦後の政治情勢の変化に伴い、新たにドイツのアーノルト・ユンクで製造されたもので、基本的には1100番台までの機体と同一であるが、燃料油併燃装置が装備されないほか、ボイラーの仕様が一部異なるものであった。さらに1928年10月30日のボスニア東線のセルビア側の開業とベオグラード - サラエヴォ間での直通運行用の開始に伴い、ハンガリー王国のマーバグ製の1300番台44機が導入されている。1300番台はボイラーの仕様などは1100番台と同一ながら、RU番台同様燃料油併燃装置は装備していない。 1929年の憲法停止、国王独裁体制への移行に伴う国名のユーゴスラビア王国への変更に伴い、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国鉄道もユーゴスラビア国有鉄道 に名称変更となり、1933年には前述のとおり称号改正が実施されてIVa5形は83形に形式変更となっている。また、1930-40年には本形式より高出力で牽引力の高い車軸配置1'D'1のIVa6形1501-1535号機(後の85形001-045号機)が導入されて勾配線区用や急行列車牽引用として本形式とともに運用されていたほか、セルビアが導入していた大型機である84形なども同様に本形式とともに運用されていた。 1939年に勃発した第二次世界大戦の中で1941年にはクーデターや枢軸国によるユーゴスラビア侵攻によりユーゴスラビア王国が実質的に崩壊したことにともない、ユーゴスラビア王国の鉄道はクロアチア独立国のクロアチア国鉄やセルビア救国政府のセルビア国鉄および占領していたドイツ、ハンガリー、イタリア、ブルガリア各国の国鉄が運行するようになったほか、パルチザンが運営する民族解放軍営鉄道がその支配地域で運行されており、本形式の各機体もそれぞれの鉄道が運行をしていた。
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ユーゴスラビア王国
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1929年~1941年、フェリザイはユーゴスラビア王国のヴァルダル州の一部だった。
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ユーゴスラビア王国
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「Do 215 (航空機)」の記事における「ユーゴスラビア王国」の解説
ユーゴスラビア王国空軍(英語版)がDo 215を発注したが、第二次世界大戦が始まったために納入されなかった。
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ユーゴスラビア王国
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「第一次世界大戦の犠牲者」の記事における「ユーゴスラビア王国」の解説
ユーゴスラビアにおける犠牲者の推計は、1991年当時の国境に基づくものである。 第一次大戦中、スロベニア、クロアチア、ボスニアはオーストリア=ハンガリー帝国の版図の一部であり、セルビア(現在のマケドニア共和国を含む)やモンテネグロは独立国であった。ユーゴスラビアの歴史家であるウラジミール・デディエル(英語版)は、第一次世界大戦におけるセルビア人の戦没者数を、戦闘員の戦死者36万9815人、民間人戦没者60万人と推計している。1991年当時のユーゴスラビア国境に基づく第一次世界大戦の犠牲者の推計は次の通り)。戦没者合計約99万6000人(セルビア軍における戦死者:26万人、オーストリア=ハンガリー軍における戦死者:8万人、モンテネグロ軍における戦死者:1万3000人、捕虜の待遇にあるうちに亡くなった者:9万3000人、飢餓、病気を死因とする民間人戦没者:40万人、軍事行動によって亡くなった民間人戦没者:12万人、オーストリア=ハンガリー政府管轄の刑務所内で死亡、または、処刑された者:3万人
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ユーゴスラビア王国
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第一次世界大戦後、オーストリア=ハンガリー帝国が解体され、スプリトを含むダルマチア県はセルブ・クロアート・スロヴェーヌ王国の一部となった(1929年に国名をユーゴスラビア王国とした)。しかしアドリア海東岸の二大都市リエカとザダルはイタリア王国に併合された。スプリトはユーゴスラビア王国の最重要港となった。新しい王国では、スプリトは新しい行政単位プリモルスカ州(en:Littoral Banovina)の中心地となった。リカ鉄道がスプリトと国内他都市を結んで1925年に完成した。 ツヴェトコヴィッチ=マチェク合意(en)の後、スプリトは新設された行政単位(サヴァ州とプリモルスカ州および、その他の幾つかのクロアチア人地域の統合)であるクロアチア自治州(en:Banovina of Croatia)の一部となった。
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ユーゴスラビア王国
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「スロベニアの歴史」の記事における「ユーゴスラビア王国」の解説
「ユーゴスラビア王国」も参照 ユーゴスラビア王国が成立した時、スロベニア人100万人が国民となったが、王国はすぐさまイタリアの圧力に悩まされる事となった。イタリアは先のロンドン協定で約束された領土をあきらめておらず、ヴェルサイユでの議論の最中、リュブリャナへ向けて侵攻を行ったが、これはスロベニア人将校の部隊によって阻止された。さらに1919年1月27日にはマリボルにおいてドイツ系住民が自決権を求めてデモを行うとスロベニア軍がこれに発砲する事態に至った「マリボルの流血の日」事件が発生するにまで至っていた。 さらにオーストリア南部のケルンテン州国境地帯はユーゴスラビア軍が占領していたが、オーストリアのケルンテン州政府はオーストリア政府の忠告を聞かずに郷土防衛隊を組織、1918年12月5日よりユーゴスラビア軍の攻撃を行った。この諍いの休戦交渉が1919年1月以降行われたがこの調査を担当したアメリカ調査委員会はオーストリアよりの状況報告を行ったため、オーストリア側に有利に進んでいたが、これに苛立ったユーゴスラビア側は4月29日に攻撃を開始した。初期においては劣勢であったユーゴスラビア側も正規軍を投入したことによりクラーゲンフルトを占領するにまで至ったが、協商国が介入、ユーゴスラビア軍は排除され、講和条約が結ばれた。 結局、連合国はクラーゲンフルトに設置された委員会に裁定をゆだね、住民投票が1920年10月10日に行われたが、クラーゲンフルトを含むAゾーンではオーストリアへの帰属を求めるものが多かったため、オーストリアへの帰属が決定、Aゾーン北方のBゾーンではこの結果を受けた上で投票が行われなかった。しかし、この一連の出来事により民族的に傷つけられたスロベニア人らによるオーストリア人襲撃などを含む抵抗活動が発生した。このため、カラベンケ山地がオーストリアとセルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の国境と化した。一方でイタリア側国境では緊張が続いており、1920年11月12日にラパロ条約が結ばれるまで落ち着く事はなかった。しかし、イタリアのガブリエーレ・ダンヌンツィオが武力行使を行った事により、クロアチア人の抗議があったにもかかわらずフィウメはイタリアに属する事となった。 1921年6月28日、ヴィドダン憲法が制定されることにより、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国の基礎が形成された。しかし、スロベニア人議員26名が憲法制定議会で棄権したように、スロベニア人が主張していた連邦主義は採用されることなくセルビア人の主張した中央集権主義が採用された。スロベニア議員らは主にコロシェツ神父が率いるスロベニア人民党員であったが、コロシェツは中央政府との協力を行う事により、内務大臣を何度か勤める事となる。そしてユーゴスラビアで経済危機が1931年に発生すると翌年にはさらに状況が悪化、クロアチア農民らの暴動が発生する事態に至り、スロベニアでも兵士による反乱が発生した。さらに、クロアチア人指導者であるスチェパン・ラディチが議会内で銃撃され後に死亡したことにより、国王アレクサンダル1世が王国内の危機収拾のために首相に就任、事態収拾に奔走するが、それも身を結ばずに辞任、その3日後にアレクサンダル1世は独裁制への移行を表明することとなる。 コロシェツはこの新たな局面において「1932年宣言」を行う事により、スロベニアへの自治権の委譲、イタリア、オーストリア、ハンガリーにおいて少数民族と化しているスロベニア人居住地域を王国領とするために国境線修正を要求したが、イタリアがこれを挑発行為として非難、国王アレクサンダル1世はコロシェツを逮捕、ツレス島へ幽閉した。その後、アレクサンダル1世が暗殺された後、国政を担うこととなったパブレ公の指示の元、ミラン・ストヤディノヴィッチ (en) が首相に就任した際には、ストヤノディノヴィッチはスロベニア人民党からの協力を得るためにコロシェツを政界に復帰させ、内務大臣に就任させた。しかし、ストヤディノヴィッチがローマ教皇との「コンコルダート(宗教協約)」締結を行おうとしたが、セルビア正教会による大規模な反対キャンペーンが行われ、コロシェツがスロベニア人とクロアチア人の弾圧を行ったとして非難された。 しかし、これらの諸問題を解決するため1939年8月、ストヤディノヴィッチの後任首相ドラギシャ・ツヴェトコヴィッチ (en) とクロアチア農民党 (en) 指導者ヴラドコ・マチェク (en) との間で「スポラズム(協定) (en) 」が結ばれ、ザグレブを州都とするクロアチア自治州 (en) が形成された。このため、クロアチアにおける問題については一定の成果が見られたが、スロベニアでは「スポラズム」が結ばれなかったため、スロベニアでも自治を求める声が高まっていた。
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ユーゴスラビア王国
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「ユーゴスラビアの国章」の記事における「ユーゴスラビア王国」の解説
ユーゴスラビア王国の国章は、セルビア王国の王家オブレノヴィッチ家の紋章を使用しており、この国章は現在もセルビアの国章として使われている。ただし鷲の中央の紋章には手が加えられ、セルビア十字を配したセルビアの紋章は左上に寄せられて、右上にクロアチアの紋章である赤白のチェック(シャホヴニツァ)が、下部には青地に上向きの白い三日月とツェリェ伯家の三つの黄色い六芒星が描かれたスロベニアの紋章が置かれた。
※この「ユーゴスラビア王国」の解説は、「ユーゴスラビアの国章」の解説の一部です。
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ユーゴスラビア王国(ヴァルダル・バノヴィナ(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、英語版))
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「マケドニア」の記事における「ユーゴスラビア王国(ヴァルダル・バノヴィナ(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、英語版))」の解説
この内、セルビア王国の支配下に入ったマケドニア領域(現在の北マケドニア)は、第一次世界大戦の敗戦で解体されたオーストリア=ハンガリー帝国からスロベニア、クロアチア、ボスニア、ヘルツェゴヴィナ、そして、一時的に独立していたモンテネグロ王国などと併せ、「南スラヴ人の統一国家」を掲げたコルフ宣言(ギリシア語版、ブルガリア語版、セルビア・クロアチア語版、英語版)(1917年)をセルビア王国が実現するとの大義名分で、セルビア人・クロアチア人・スロベニア人王国(後のユーゴスラビア王国)の一部に組み込まれた。
※この「ユーゴスラビア王国(ヴァルダル・バノヴィナ(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、英語版))」の解説は、「マケドニア」の解説の一部です。
「ユーゴスラビア王国(ヴァルダル・バノヴィナ(マケドニア語版、ギリシア語版、ブルガリア語版、英語版))」を含む「マケドニア」の記事については、「マケドニア」の概要を参照ください。
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