サラエボ事件
別名:サライェヴォ事件、サラエヴォ、サラェボ事件
1914年、オーストリア皇太子夫妻が、当事オーストリア(オーストリアハンガリー帝国)に併合されていたボスニア・ヘルツェゴビナの都市サラエボで殺害された事件。第一次世界大戦の引き金となったことで知られている。
オーストリア皇太子はオーストリア大公カール・ルートヴィヒの子息で、オーストリアの帝位継承者だった。ボスニア・ヘルツェゴビナは各国の勢力争いの場となった上に、オーストリアに支配されるなどの経緯を経て、汎スラヴ主義や大セルビアといった民族主義思想が高まっていたという背景がある。
サラエボ事件を受けてオーストリア側はセルビアに宣戦布告し、そのまま交戦状態に突入した。実行犯となった青年は獄死している。
サラエヴォ
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サラエヴォ[3][4][5](ボスニア語:Sarajevo [sǎrajeʋo] ( 音声ファイル)、クロアチア語:Sarajevo、セルビア語:Сарајево)は、ボスニア・ヘルツェゴビナの首都。同国の構成体のひとつであるボスニア・ヘルツェゴビナ連邦の首都でもある。ボスニア・ヘルツェゴビナで最多の人口をもつ都市。
- 1 サラエヴォとは
- 2 サラエヴォの概要
サラエヴォ
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「スルプスカ共和国の地方行政区画」の記事における「サラエヴォ」の解説
1993年、「国家の戦時あるいは戦争の差し迫った危機時におけるサラエヴォ・セルビア人都市に関する法」が制定され、「サラエヴォ・セルビア人都市」の範囲を次のように設定した: ツェンタル(Centar)、ハジチ(Hadžići)、イリジャ(Ilidža)、イリヤシュ(Ilijaš)、ノヴォ・サラエヴォ(Novo Sarajevo)、スタリ・グラード(Stari Grad)、ライロヴァツ(Rajlovac)、ヴォゴシュチャ(Vogošća)、トルノヴォ(Trnovo)。このうち、ツェンタル、ハジチ、イリヤシュ、ライロヴァツ、ヴォゴシュチャは実際にはボスニア・ヘルツェゴビナ連邦に編入されている。 現在、スルプスカ共和国側のサラエヴォには、次の6つの基礎自治体を含む: スルプスカ・イリジャ(カシンドに改名済み)、スルプスカ・ノヴォ・サラエヴォ(イストチノ・ノヴォ・サラエヴォに改名済み)、パレ、ソコラツ、スルプスキ・スタリ・グラド(イストチニ・スタリ・グラドに改名済み)、トルノヴォ。 1996年、「サラエヴォ・セルビア人都市」は「スルプスコ・サラエヴォ都市」に改名された。2004年、ボスニア・ヘルツェゴビナ共和国裁判所はこの名称は憲法違反であるため「暫定的に改名されるべき」であるとし、「イストチノ・サラエヴォ」(東サラエヴォ)に改名された。
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