民族浄化とは? わかりやすく解説

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みんぞく‐じょうか〔‐ジヤウクワ〕【民族浄化】

読み方:みんぞくじょうか

ethnic cleansing訳語複数民族が住む地域で、特定の民族集団武力用いて他の民族集団虐殺迫害追放して排除すること。民族の純粋化。エスニッククレンジング

[補説] 1990年代旧ユーゴスラビア内戦の中で生まれた語という。


民族浄化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/01/25 08:05 UTC 版)

民族浄化(みんぞくじょうか、クロアチア語ボスニア語セルビア語: етничко чишћење / etničko čišćenje英語: ethnic cleansing)は、おもに戦争における戦略として、大量虐殺強制移住などの手段で特定の民族を殲滅させることを言う。


  1. ^ OUR TEAM - Washington DC Hub” (英語). official webcite. Global Communicators. 2019年8月28日閲覧。
  2. ^ a b c d 高木 2002 [要ページ番号]
  3. ^ a b c 佐原 2008 [要ページ番号]
  4. ^ 伊藤 1996 [要ページ番号]
  5. ^ a b ロヒンギャを「民族浄化」 国連、ミャンマーへ批判噴出」『朝日新聞デジタル朝日新聞社、2017年9月15日。2017年12月26日閲覧。


「民族浄化」の続きの解説一覧

民族浄化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 07:07 UTC 版)

サラエヴォ包囲」の記事における「民族浄化」の解説

報告によると、セルビア人勢力包囲の間に、サラエヴォのうち彼らの占領下においた地域で民族浄化作戦展開していたと言われている。 Michael A. Sellsの『The Bridge Betrayed: Religion and Genocide in Bosnia』の中で、民族主義者ではないセルビア人もまた暴力対象となっていたことを指摘している。 ムスリム人迫害への参加拒んだセルビア人殺害された。サラエヴォセルビア人占領地区において、セルビア人武装勢力兵員が、市民への蛮行拒否したセルビア人当局者を殺害した武装勢力は、この人物の遺体みせしめとして1週間わたって路上放置したセルビア人勢力によるサラエヴォでの「選別作業のさなか、セルビア人老人リュボ(Ljubo)はムスリム人友人隣人らと離されるのを拒んだため、その場で死ぬまで殴られた。 その後数年間に及ぶ1990年代は、ユーゴスラビア紛争におけるセルビア人戦争責任に関して国際社会広く共有していた認識を、セルビア人側が否定する否認主義時代として特徴づけられる時代であった2000年代に入ると、セルビア人そのほか外部著者によって、広く知られているセルビア人による蛮行、たとえばスレブレニツァの虐殺類するような、非セルビア人、すなわちボシュニャク人ムスリム人)やクロアチア人蛮行焦点当てる傾向作り上げられた。たとえば、ユーゴスラビア紛争における、セルビア人市民対すボシュニャク人クロアチア人による民族浄化作戦大きな関心を払うようになった1992年から1995年までの間に、150,000人のセルビア人サラエヴォから民族浄化され、うち数千人が殺害されていると主張されている。これらの主張は、2005年スルプスカ共和国首相であるペロ・ブケイロヴィッチ(Pero Bukejlović)によって前面出され、それによると、サラエヴォ包囲のさなかにセルビア人市民対すジェノサイドが行われたと主張した。そして、その犠牲者の数は、セルビア人勢力によるボシュニャク人大量虐殺であるスレブレニツァの虐殺犠牲者数上回るとした。 ボスニア・ヘルツェゴビナ政府によるセルビア人市民への民族浄化がサラエヴォ行われたとする主張は、サラエヴォ市民の間では、民族の別を問わずきわめて攻撃的な侮辱であった認識されている。ブケイロヴィッチによる主張に対して多く人々公的な謝罪求めたセルビア市民議会議長であったミルコ・ペヤノヴィッチ(Mirko Pejanović、紛争中はボスニア・ヘルツェゴビナ大統領評議会一員であり、2007年から2011年までサラエヴォ大学政治科学部学部長)は、次のように述べた: いかなる者も、ブケイロヴィッチであれ、政治的な必要性のために真実を捻じ曲げたり覆い隠したりすることはできないサラエヴォでは、包囲されていた4年間の間に、カラジッチの軍とセルビア民主党によって、民族の別を問わず多くサラエヴォ市民死亡した多く人々飢餓寒さを耐え、あるいは死に、また多く人々砲撃によって死んだ紛争中の死者数12,000人を数え少なくともそのうち4分の1セルビア人か、セルビア人血を引くであった。よって、われわれは、政府によるセルビア人対す根絶作戦ジェノサイドではなくセルビア民主党カラジッチの軍によるサラエヴォサラエヴォ市民、そしてその中に含まれるサラエヴォセルビア人市民対す根絶作戦責任について話す必要がある紛争中、セルビア人勢力は、ムスリム人男性女性分け女性に対して組織的に強姦・性暴行加えていた。セルビア人勢力当局者はそれを認識し、また認可している中で、これらの性犯罪行為が行われたとされている。2001年旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷は、公式にドラゴリュブ・クナラツ(Dragoljub Kunarac)、ラドミル・コヴァツ(Radomir Kovac)、ゾラン・ヴコヴィッチ(Zoran Vukovic)を強姦の罪で告訴した

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民族浄化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 03:50 UTC 版)

フォチャの虐殺」の記事における「民族浄化」の解説

セルビア人勢力によるボスニア東部での民族浄化に関して旧ユーゴスラビア国際戦犯法廷判決では以下のように言及されている: ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争のさなか、ボスニア・ヘルツェゴビナ東部ではスルプスカ共和国中心とするセルビア人勢力が、非セルビア人市民攻撃していた。町やひとたびセルビア人の手落ちると、セルビア人勢力 - 軍や警察準軍事組織、そして時にはセルビア人村人までもが - おなじパターンに従って行動したボシュニャク人の家や住宅組織的に破壊される放火され、ボシュニャク人市民追い込まれる捕らえられ時に殴打され殺害された。男性女性分離され男性らの多く強制収容所送られた。女性らは各地抑留地にとどめ置かれ極めて劣悪な環境の中での生活を強いられ繰り返し強姦されるなどの虐待受けたセルビア人兵士警官はこれらの抑留地を訪れ一人あるいは複数女性選んで連れ出し強姦した。 この事件によって、ボシュニャク人市民地域から一掃されるとともにボシュニャク人文化など、ボシュニャク人地域存在した痕跡はほぼ完全に払拭された。市内すべてのモスク破壊された。1992年4月22日セルビア人勢力はアラジャ・モスク(ボスニア語: Aladža džamija)を爆破した。アラジャ・モスクは、バルカン半島地域では有名な歴史あるモスクであったまた、このほかに、16世紀から17世紀にかけて建造され8つモスク破壊されている。1994年1月セルビア人当局フォチャを「スルビニェ」(Србиње / Srbinje)と改称した。「スルビニェ」とは、「セルビア人の地」を意味する語であり、「セルビア人」を意味する「Srbi」と、スラヴ語土地を表す接尾語「-nje」から成っている。

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民族浄化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/25 05:24 UTC 版)

ラシュヴァ渓谷の民族浄化」の記事における「民族浄化」の解説

1992年6月クロアチア人勢力支配権獲得しようとして抵抗にあっていたノヴィ・トラヴニク(英語版)へと標的移っていった。1992年6月18日クロアチア防衛評議会はノヴィ・トラヴニクのボスニア・ヘルツェゴビナ政府軍に対して最後通牒行った通牒は、域内におけるボスニア政府機関の廃止クロアチア人政府への忠誠表明ボスニア軍のクロアチア人勢力への服従ボシュニャク人難民追放などを24時間以内実施するよう求めるものであった1992年6月19日、ノヴィ・トラヴニクにて武力衝突発生した戦闘は2時間におよび、ボスニア・ヘルツェゴビナ郷土防衛軍司令部小学校郵便局などがクロアチア人獲得目標とされ攻撃をうけた。攻撃にはヴィテズブソヴァチャから送り込まれクロアチア人勢力参加していた。ノヴィ・トラヴニクの谷あいに住むボシュニャク人たちは虐殺強姦その他の虐待対象となった1992年8月クロアチア人勢力はドゥフリ(Duhri)、ポトクライ(Potkraj)、ラダノヴィチ(Radanovići)、トポレ(Topole)といった々への攻撃実行攻撃ではボシュニャク人民家への放火ボシュニャク人企業破壊といった蛮行が行われた。多くボシュニャク人市民今後更なる攻撃加えられることを恐れ周囲クロアチア人勢力囲まれキセリャク地域から脱出していった。 ICTYのコルディッチおよびチェルケズ事件判決において、クロアチア人勢力乗っ取られ中央ボスニア各自治体ブソヴァチャ、ノヴィ・トラヴニク、ヴァレシュ(英語版)、キセリャクヴィテズ、クレシェヴォ(英語版)、ジェプチェ(英語版)におけるボシュニャク人への迫害は、数多く証拠により明らかであるとした。更に、これらの自治体ではパターンとして確立されボシュニャク人対す迫害展開されており、クロアチア防衛評議会はこれらの地域ボスニア・ヘルツェゴビナからの分離、そしてクロアチアへの統合目指しボシュニャク人対す一連の作戦として迫害実行した断じられた。 1992年12月中央ボスニア・ラシュヴァ渓谷各自治体ではクロアチア人勢力がほぼ支配権確立し一定の抵抗続いていたのはノヴィ・トラヴニクおよびアフミチ(英語版)のみであった。すなわち、中央ボスニア大部分クロアチア人勢力支配下におかれていた。

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民族浄化

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/16 02:59 UTC 版)

ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争」の記事における「民族浄化」の解説

詳細は「民族浄化」を参照 ボスニア・ヘルツェゴビナ紛争は、各交戦勢力各々民族勢力圏拡大することを目的としており、「陣取り合戦」の様相呈していた。このような中で、支配地域から不安要因取り除く目的で、自勢力支配下に住む異民族排除し勢力圏民族的に単一にするための民族浄化が行われた。 手段としては各種嫌がらせ差別的な待遇武器没収家屋への侵入略奪破壊資産強制接収暴行拷問強姦・殺人によって、その地域から退去せざるを得ない状況追いやる方法や、強制追放強制収容、あるいは大量虐殺によって物理的に異民族地域から取り除く方法がとられた。 従軍能年齢にある男性は各地虐殺強制収容対象とされた。また、女性らは強制収容後、組織的な強姦繰り返され妊娠中絶不可能な段階になってから解放することによって、出産せざるを得ないよう仕向けた。これは家父長的な男権社会の影響残っていたボスニア・ヘルツェゴビナ村社会では、女性強姦によって(異民族の子を)妊娠・出産したということは一族にとって非常な不名誉見なされるため、これによってコミュニティ破壊させ、効果的に異民族排除できると考えられたためである。[要出典]

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