ホジャリ大虐殺
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 00:13 UTC 版)
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ホジャリ大虐殺 | |
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ナゴルノ・カラバフ戦争中 | |
場所 | アゼルバイジャン、ナゴルノ・カラバフ、ホジャル |
日付 | 1992年2月26日 |
標的 | アゼルバイジャン人 |
死亡者 | ヒューマン・ライツ・ウォッチによると161人以上または200人以上[1][2] アゼルバイジャン議会によると485人[3] アゼルバイジャン政府によると613人[4] |
犯人 | アルメニア人武装勢力 独立国家共同体の第366自動車化狙撃兵連隊所属の一部将兵 |
ホジャリ大虐殺(ホジャリだいぎゃくさつ、アゼルバイジャン語: Xocalı soyqırımı)またはホジャル虐殺[5] (ホジャルぎゃくさつ) とは、ナゴルノ・カラバフ戦争中の1992年2月25日から26日に起きた、アルメニア人によるホジャルのアゼルバイジャン人住民に対する大量虐殺事件。
メモリアルやヒューマン・ライツ・ウォッチなどによると[6][7]、虐殺は、アルメニア人武装勢力と独立国家共同体の第366自動車化狙撃兵連隊所属の一部将兵[注釈 1]によって実行されたという。
アゼルバイジャン当局によると、106名の女性と63名の子供を含む合計613名の民間人が殺害されたという[4] 。老人、女性、子供なども大勢殺され、目を抉られたり、耳を切られたり、髪を剥がされたり、遺体を焼かれたり、切り刻まれたりと非常に残酷な方法による殺人や遺体の愚弄が目立った[5]。ナゴルノ・カラバフ紛争中、アゼルバイジャン人は断続的に殺されていたが、それらの中でも最大の悲劇とされ、「黒い一月事件」と並び、ナゴルノ・カラバフ紛争におけるジェノサイドの最も象徴的な事件とされている[5]。
脚注
注釈
出典
- ^ “Human Rights Watch World Report 1993 – The Former Soviet Union”. Hrw.org. 2015年2月18日時点のオリジナルよりアーカイブ。2020年3月13日閲覧。
- ^ Human Rights Watch/Helsinki (1994). Azerbaijan: Seven Years of Conflict in Nagorno-Karabakh. New York [u.a.]: Human Rights Watch. p. 6. ISBN 1-56432-142-8 2020年3月13日閲覧。
- ^ de Waal, Thomas (2004). Black garden: Armenia and Azerbaijan through peace and war. ABC-CLIO. pp. 172–173. ISBN 0-8147-1945-7. オリジナルの3 June 2016時点におけるアーカイブ。
- ^ a b Letter dated 26 February 2015 from the Permanent Representative of the Republic of Azerbaijan to the United Nations Office at Geneva addressed to the President of the Human Rights CouncilArchived 11 January 2016 at the Wayback Machine.
- ^ a b c 廣瀬陽子「アゼルバイジャン ジェノサイドの20世紀」石田勇治・武内進一編『ジェノサイドと現代世界』勉誠出版、2011年3月31日 初版発行、ISBN 978-4-585-22511-9、205頁。
- ^ “New York Times – massacre by Armenians Being Reported”. Commonwealth of Independent States; Azerbaijan; Khojaly (Armenia); Armenia: Select.nytimes.com. (1992年3月3日). オリジナルの2007年3月11日時点におけるアーカイブ。 2020年3月13日閲覧。
- ^ Smolowe, Jill (16 March 1992). “TIME Magazine – Tragedy Massacre in Khojaly”. Time.com. オリジナルの28 February 2005時点におけるアーカイブ。 2020年3月13日閲覧。.
- ^ Bloodshed in the Caucasus: escalation of the armed conflict in Nagorno Karabakh, vol. 1245 of Human rights documents, Human Rights Watch, 1992, p. 24
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ホジャリ大虐殺
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「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「ホジャリ大虐殺」の解説
詳細は「ホジャリ大虐殺」を参照 2月初頭、マリベイリ(ロシア語版)、カラダグリ (en)、アガダバン (ru) のアゼルバイジャン人の村が襲撃され、村人が排除される過程で民間人から少なくとも99人の死者と140人の負傷者を出した。当時、アルメニアとナゴルノ・カラバフを接続していたのは細い山道を通るラチン回廊のみで、ナゴルノ・カラバフで唯一の空港はステパナケルトからおよそ10キロメートル北西の、人口7千人の小さなアゼルバイジャン人居住区、ホジャリ(ロシア語版)に置かれていた。加えてホジャリはステパナケルトに対するアゼルバイジャン側の砲撃拠点とされており、ステパナケルトには数日にわたって4百発ほどの122ミリロケットがアルメニア人の多層アパートに向かって降り注いでいた。2月末、アルメニア軍はアゼルバイジャン側へ通告を行い、今後砲撃を停止しない場合はホジャリを占領すると最後通牒を発した。一方、アゼルバイジャン側の報道によれば、ホジャリは周囲のアルメニア人居住区から3か月にわたって爆撃を受けており、水道や電気も1月から停止していたという。 ほどなくホジャリの大部分は包囲され、26日にアルメニア軍は第366軍の装甲車両数台を以てホジャリの制圧を開始した。ヒューマン・ライツ・ウォッチや「メモリアル」の報告書、そしてアルメニア軍司令官モンテ・メルコニアン(英語版)の兄によるメルコニアンの評伝が共通して記すところによれば、ホジャリを攻略した後、アルメニア軍は街から避難しようとする数百人のアゼルバイジャン人に対して虐殺を行った。アルメニア軍は以前、ホジャリを攻撃したとしても、市民の退避のためにアゼルバイジャン支配域への回廊は封鎖せずに残しておくと述べていた。にもかかわらず、攻撃が始まるとアルメニア軍は民間人を含むホジャリの防衛組織を武力で圧倒して空港の滑走路を破壊し、退路を断たれ回廊へ逃れようとした民間人たちに銃撃を加えた。攻撃の生存者の多くも、凍死するか重度の凍傷を負い、犠牲者たちの遺体にも執拗に損傷が加えられた。事件の正確な犠牲者数は不明だが、少なく見積もったとしても485人、アゼルバイジャン当局の公式発表では女性106人と子供83人を含む613人の民間人が虐殺されたという。この他にも1257人がアルメニア側の人質となり、拷問、強姦されたとされる。ホジャリでのアルメニア人の略奪も、ナゴルノ・カラバフ共和国政府によって合法化された。ホジャリの市長は、紛争の4年間で千人以上が殺害され、200人以上が行方不明となり、同じく200人が戦闘で負傷して300人が捕虜となったと語っている。 ホジャリの生存者らは、ムタリボフが自身の失政を隠蔽するためにホジャリからの救援要請を無視したと主張し、これに対しムタリボフは、虐殺事件そのものが自分を失脚させるために政敵のアゼルバイジャン人民戦線が仕組んだマッチポンプであると述べた。アルメニア側もムタリボフの論に同調し、虐殺を捏造であるとして否認している。ヒューマン・ライツ・ウォッチの前身であるヘルシンキ・ウォッチによる同年の調査では、制服あるいは武装した状態のアゼルバイジャンのOMONもしくは民兵が民間人の中に紛れており、アルメニア軍はそれに向けて発砲した可能性があると報告されている。 8万人を超す抗議者が議事堂を取り囲むなか、ホジャリの喪失と人命の損傷について野党人民戦線から責任を追及されたムタリボフは3月8日に議会に辞表を提出し、臨時大統領には人民戦線のヤグブ・ママドフ(英語版)が就任した。
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