テヘラン共同宣言
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:54 UTC 版)
「ナゴルノ・カラバフ戦争」の記事における「テヘラン共同宣言」の解説
一方、1992年初頭からは新たな和平調停の試みがイランによって始められていた。2月から外相のアリーアクバル・ヴェラーヤティーがバクー、エレヴァン、カラバフを訪問し、その後の一時調停はホジャリ大虐殺によって中止されていたが、3月にも特使のマフムード・ヴァエズィー(ペルシア語版)がシャトル外交(英語版)を繰り返し、最終的に大統領のハーシェミー・ラフサンジャーニーが5月7日にテル=ペトロシャンとママドフの両国大統領をテヘランでの会談に出席させることに成功した。この会談によって、軍人を含む両国の最高レベルの代表者による協議の組織化が取り決められ、当事者間のすべての紛争は全欧安全保障協力会議 (CSCE) によって国際法に基き解決されることが宣言された。ヴァエズィーとCSCEのオブザーバーの介入の後、両国はあらゆる交流の再開に合意した。合意事項には国境地帯の安全確保のみならず、継続的な難民問題の解決を国際基準や国連憲章によって保障することも含まれていた。 だが、合意の翌日に停戦協定に違反してアルメニア軍がシュシャ(ロシア語版)に侵攻し、和平交渉は無に帰した。
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