テヘランでの活動期
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「モルタザー・モタッハリー」の記事における「テヘランでの活動期」の解説
モタッハリーは1951年に結婚し、翌年テヘランに移った。そして移住して2年経つと、テヘラン大学神学部で教授色に就いた。この環境の変化は、彼の人生の画期であった。なぜならこれまで宗教学者に囲まれたゴムの学院から、若い世俗的な知識人、学生、さらにバーザールの商人など、一般の信者と直接接することになったからである。 モタッハリーは大学で教鞭を執る傍ら、様々なイスラーム関係の集会で講演活動を行った。その活動を通じて、イスラームが今日抱える問題群と新しい時代に対応する方策について人々を啓蒙した。彼は講演の原稿の大半を出版した。彼の基本的関心は、一つは一般信者の啓蒙活動、他はウラマーの内的堕落に対する批判であり、これと表裏する自らの属する階層の改革であった。1964年にホメイニーが国外追放されて以降も、モタッハリーは政治活動に積極的に関わらず、彼の最大の関心であるイスラーム離れした人々(特に若年の知識人と学生)への啓蒙活動であった。モタッハリーがこのように政治に積極的に関与せず、自ら「手を汚さない」慎重な態度は、とかく彼の対抗者から厳しい批判を受けた。1963年から1964年の激動期を通して、ゴムでの反体制運動の苦い経験のせいか、彼はこれまで以上に知識人の啓蒙活動に精力を傾け始めた。そも最も重要な部分が、次のホセイニーイェ・エルシャードでの活動である。 ホセイニーイェ・エルシャードは、新しい時代に対応するために、主として若年の知識人にイスラームの新しい価値を認識させる教育機関として設立された。政治活動は一切その活動内容に含まれていない民間の教育機関であった。この期間は1963年、テントの講義室で始まり、1967年の冬、立派な講義室を持つ建物が新しく完成し、1968年1月14日、慈善組織として登録された。設立者はホマーユーン(Moḥammad Homayun)、アリーアーバーディー( 'Abd al-Ḥoseyn 'Alīabādī)、並びにミラーチー(Naser Mirachi Moqaddam)であった。同時に3名から構成される理事会が結成され、ホマーユーニーが会長、モタッハリーが副会長、さらにミーラーチーが会計監査であった。モタッハリーはこの色にさほどの関心を示したわけではなかったが、この教育機関の業務の重要な部分である、講演者の選定や出版事業に関しては並々ならぬ強い関心を持っていた。 エルシャードでの活動の初期、モタッハリーの関心は伝統墨守、頑迷固陋な宗教学者に対する挑戦、批判を含むものであった。したがって、彼が講演者として選んだ人物には、アリー・シャリーアティー父子などといった、極めて近代的教養を備えた人々が含まれていた。モタッハリーは、講演の内容を重視しており、講演者の聖俗の区別にたいしてあまりこだわりがないようであった。例えば、アリー・シャリーアティーは、後年ホメイニーに並ぶ革命運動のシンボルといわれたが、この人物はパリで博士号を取得した世俗的知識人であった。 しかし、70年頃を境にして、ホセイニーイェ・エルシャードの運営方針(特にミラーチーの「専横」)、並びにアリー・シャリーアティーの絶大な人気を背景にした過激な講演などが主因となり、モタッハリーは次第にエルシャードから距離をおくようになった。 モタッハリーにとって、ホセイニーイェ・エルシャードでの収穫は、ここで定期的に行った講演を通じて自らの依って立つ立場を一層明確にできた点であり、さらに具体的には出版の形でより広範な読者に自らの思索の成果を示すことができた点である。他方、ウラマー階層の中で近代主義的な視点から内部改革を目指してきたが、その過程で世俗的知識人の「逸脱」を直接体験することになった。 エルシャードを去ってからも、モタッハリーが積極的に反政府運動の前面に現れることはなかった。この間も国外追放中のホメイニーと密に連絡を取っていた一方で、この期間は、これまでと同様に指導的ウラマーの倫理の重要性、一般信者に対するイスラーム教育などに関する講演や著述に加えて、より明確に唯物主義(社会主義、共産主義のみならず西洋の無神論一般)批判を展開し始める。この批判は唯物主義全般に対する思想的なものであると同時に、西洋列強の「操り人形」であるパフラヴィー王朝支配者の批判を含蓄するものであった。さらに唯物主義の危険性に対する警告は、国内の社会主義・共産主義的政治運動家(トゥーデ党など)に対しても向けられた。確かにホメイニーは、反体制運動を成功させるために極限まで左翼勢力の力を利用する戦略をとっていた。しかし、ホメイニーもその弟子モタッハリーとともに、例えばモジャーヘディーネ・ハルク(人民聖戦団)のようなグループの危険性を早期から認識いていたのである。
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