モンゴメリー・バス・ボイコット事件とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > モンゴメリー・バス・ボイコット事件の意味・解説 

モンゴメリー・バス・ボイコット事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/03 02:21 UTC 版)

パークスが逮捕時に乗っていたバス。ヘンリー・フォード・ミュージアムに展示されている。

モンゴメリー・バス・ボイコット事件Montgomery Bus Boycott)は、1955年アメリカ合衆国アラバマ州モンゴメリーで始まった人種差別への抗議運動である。事件の原因は、モンゴメリーの公共交通機関での人種隔離政策にあり、公民権運動のきっかけの一つとなった。

事件のいきさつ

ローザ・パークスの逮捕

1955年12月1日、市営バスに乗車したローザ・パークスは「黒人優先席」の最前列に座っていた。次第に乗車して来る白人が増えてきたため、運転手のジェームズ・ブレイクは、黒人席の最前列を白人席に変更し、座っていた4人の黒人に席を空けるように指示したが、パークスはこれに従わなかった。ブレイクはアラバマ州警察に通報し、パークスは、「運転手の座席指定に従わなかった」という理由で逮捕された[1]

エドガー・ニクソンとキング牧師

ローザの逮捕を知った社会運動家のエドガー・ニクソン英語版は、ジョージア州アトランタからモンゴメリーの教会に移ったばかりの若き牧師マーティン・ルーサー・キング・ジュニアらに、バス乗車ボイコット運動の組織化を持ちかけた。

運動の成功

キング牧師らが、路線バスへの乗車ボイコットを呼びかけると、肌の色を問わず多くの市民がこれに応じた。特にバス利用者の約4分の3を占めていた黒人が一斉に利用しなくなったことにより、市のバス事業は経済的に大きな打撃を被った。

1956年11月13日、連邦最高裁判所は、地方裁判所の判決を支持する形で、モンゴメリーの人種隔離政策に対して違憲判決を下した。そして運動は1956年12月20日に公式に終了した。

その後

  • 1999年、パークスに議会名誉黄金勲章が授与された。更に2021年、パークスが逮捕された日を連邦祝日に指定する法案が連邦議会に提出されている。
  • ピート・シーガーは、後にこの運動に関して「バスの後部座席で (If You Missed Me at The Back of the Bus) 」と題した曲を発表した。

脚注

[脚注の使い方]

関連項目



モンゴメリー・バス・ボイコット事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 07:53 UTC 版)

マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」の記事における「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の解説

キング1954年9月アラバマ州モンゴメリーデクスター・アベニュー・バプテスト教会牧師就任したキング1年ほど平穏に牧師務めていたが、1955年12月モンゴメリー発生したローザ・パークス逮捕事件彼の運命大きな変動もたらした。この事件は、黒人であるローザ・パークスバス内で白人に席を譲らなかったために逮捕されたもので、キングはこの事件激しく抗議してモンゴメリー・バス・ボイコット事件運動計画し運動の先頭立った。この運動382日間及んで続けられ黒人たちは自家用車などでネットワーク組んで抵抗続けた。この運動の結果1956年11月連邦最高裁判所からバス車内人種分離違憲判決法律上における人種差別容認対す違憲判決)を勝ち取り抗議運動成功収めた。 モンゴメリー・バス・ボイコット事件は、公民権運動一般民衆参加した初めての運動だった。この運動の成功によって公民権運動アメリカ全土広範な広がり見せるようになり、バス・ボイコットは南部の各都市広がっていった。また、ボイコット成功によってキング公民権運動の最も有力なリーダー一人となり、これ以降アトランタバプテスト派教会牧師しながら全米各地公民権運動指導した1957年には南部キリスト教指導者会議 (SCLC)を結成し、その会長となった1958年9月20日にはハーレム黒人女性によってナイフを胸に突き立てられたが、この暗殺計画未遂終わりキング一命取り留めた1959年2月には、インド首相ジャワハルラール・ネルー招かれインド訪問している。1960年1月にはモンゴメリーからジョージア州アトランタ移った1960年2月1日には、ノースカロライナ州グリーンズボロにおいてキング影響受けた学生たちが、差別的な扱い抗議して座り込み開始した。このグリーンズボロ座り込みキング統括下南部全域拡大し2月13日から5月10日までテネシー州ナッシュビル行われたナッシュビル座り込みはじめとして都市大きな成果上げた1961年秋には、ジョージア州オールバニ起きた解放運動指導したが、1962年の夏まで続くこのオールバニ運動オールバニ市側の巧妙な対策によって失敗終わった運動失敗終わったことで、キング運動の戦略練り直し別の都市運動を再び行うことにした。 キングアラバマ州バーミングハム新たな運動起こす場所として選んだ当時バーミングハム市の人口の7割は黒人占められるといわれていたが、同時に南部でも最も人種差別激しい場所として知られていた。こうして、1963年はじめにバーミングハムでの解放運動開始された。このバーミングハム運動大きな成功おさめた理由一つとして当時バーミングハム市側が暴力的な弾圧も辞さなかったことがあげられる当時警察署長であるブル・コナー(ユージーン・コナー)はデモ隊対し非常に高圧的な態度臨み丸腰黒人青年対し警察犬けしかけ襲わせたり、警棒滅多打ちしたり、高圧ホースかけたりするなどの対策行ったこうした警官による事件映像テレビ新聞によって映し出されアメリカ世論次第にそれらの白人人種差別主義者による暴力拒絶反応示していった。なおキング1963年4月12日バーミングハム行われた抗議デモの際自らバーミングハム市警逮捕され4月19日まで拘置所独居房投獄されたこともある。このときは、同じく公民権運動家でもある歌手ハリー・ベラフォンテ保釈金支払いキング釈放された。釈放されるとすぐにキング活動再開し同年5月にはバーミングハムでの運動かなりの成功おさめた

※この「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の解説は、「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」の解説の一部です。
「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」を含む「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」の記事については、「マーティン・ルーサー・キング・ジュニア」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「モンゴメリー・バス・ボイコット事件」の関連用語

モンゴメリー・バス・ボイコット事件のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



モンゴメリー・バス・ボイコット事件のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアのモンゴメリー・バス・ボイコット事件 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのマーティン・ルーサー・キング・ジュニア (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS