日系人の強制収容とは? わかりやすく解説

日系人の強制収容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/14 02:58 UTC 版)

日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう、: Japanese Internment)とは、第二次世界大戦時において連合国、特にアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーブラジルメキシコなどのラテンアメリカ諸国、またカナダオーストラリアニュージーランドなどのイギリス連邦において行われた、日系人日本人移民に対する強制収容所への収監政策で、予防拘禁の一種である。1942年から終戦後の1949年に亘って実施された。


  1. ^ “開戦5年前に日系人収容を検討=F・ルーズベルト大統領覚書”. Yahoo!ニュース. 時事通信 (Yahoo Japan). (2008年12月3日). オリジナルの2008年12月7日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20081207092833/http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20081202-00000222-jij-int 
  2. ^ The Munson Report[リンク切れ]
  3. ^ Uボートで来たスパイ, p. 35.
  4. ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デイビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)p.202
  5. ^ 『ザ・フィフティーズ』第2部 デイビッド・ハルバースタム著 金子宣子訳(扶桑社 2006年)p.203
  6. ^ a b 『ルーズベルト秘録』産経新聞取材班 産経新聞ニュースサービス ISBN 4-594-03318-0
  7. ^ 『帝国海軍太平洋作戦史 1』P.99 学研 2009年 ISBN 4-0560-5611-0
  8. ^ Maki, Mitchell Takeshi and Kitano, Harry H. L. and Berthold, Sarah Megan. Achieving the Impossible Dream. 1999, page 143
  9. ^ a b Uボートで来たスパイ, p. 28.
  10. ^ a b c d 日系アメリカ人強制収容所 Q&A”. 全米日系人博物館 ヒラサキ・ナショナル・リソースセンター. 2019年6月16日閲覧。
  11. ^ 鶴見俊輔加藤典洋黒川創『日米交換船』ISBN 4-103-01851-8
  12. ^ 『日米交換船』鶴見俊輔・加藤典洋・黒川創(新潮社、2006年3月)
  13. ^ 『戦時下のドイツ人たち』上田浩二/荒井訓(集英社新書、2003年)
  14. ^ Inouye seeks study of Isle internment camps as possible historic sites Honolulu Advertiser(英語) 2009年4月23日付
  15. ^ Population. First Series. Number of Inhabitants. Hawaii. CENSUS OF POPULATION AND HOUSING 1940 Census
  16. ^ 井上ひさしは戯曲「マンザナ、わが町」で劇中劇の上演を命じられた5人の日系女性たちの葛藤を通して「日本人とは何か?」を描いた(新潮社 1993年)。
  17. ^ Internment of Japanese & Japanese Americans in Hawaii: Home (University of Hawaii)
  18. ^ 山本, 茂美「第二次世界大戦前後の日系人の生活と文学 : 「羅府新報」と「トパーズタイムズ」を通じて」『金城学院大学論集. 人文科学編』第8巻第2号、金城学院大学、2012年、157頁。 
  19. ^ a b 『ゴー・フォー・ブローク! 日系二世兵士たちの戦場』渡辺正清著(光人社 2003年)p.48
  20. ^ 『祖国へ、熱き心を -東京にオリンピックを呼んだ男-』(高杉良著、新潮文庫2001年)pp.241 - 243 ISBN 4-0618-5149-7
  21. ^ a b A Brief History of Japanese American Relocation During World War II
  22. ^ a b c d 『ヤマト魂 アメリカ・日系二世、自由への戦い』渡辺正清著(集英社 2001年)p.146 - 153
  23. ^ Thomas and Nishimoto, The Spoilage ISBN 0520014189
  24. ^ 小説『ノー・ノー・ボーイ』ジョン・オカダ著/中山容訳(1979年、晶文社、ISBN 4794922884
  25. ^ a b c Tule Lake Inmates Renounce US Citizenship Archived 2010年2月27日, at the Wayback Machine.
  26. ^ アンジェラとユリ:パワーって伝染する! Democracy Now!, 2014-06-07
  27. ^ a b c d 日本人に間違われ「動物以下の扱いで」殺されたヴィンセント・チン事件(’82)── 全米アジア人差別(安部かすみ) - Yahoo!ニュース”. Yahoo!ニュース 個人. 2021年5月11日閲覧。
  28. ^ Gentry, Curt (2001), J. Edgar Hoover: The Man and the Secrets, New York: Norton, p. 244, ISBN 0393321282 
  29. ^ 「ライシャワー自伝」P.143 エドウィン・O・ライシャワー著 文藝春秋刊 1987年
  30. ^ 岡本智周「在米日系人強制収容に対する補償法の変遷」『社会学評論』第54巻第2号、日本社会学会、2003年、144-158頁、doi:10.4057/jsr.54.144ISSN 00215414NAID 110000226696 
  31. ^ アメリカ黒人史との関わりでたどる、日系アメリカ人の歴史—その3 - ディスカバー・ニッケイ
  32. ^ President Gerald R. Ford's Proclamation 4417, Confirming the Termination of the Executive Order Authorizing Japanese-American Internment During World War II” (英語). Gerald R. Ford Presidential Library and Museum (1976年2月19日). 2011年1月6日閲覧。
  33. ^ a b 事象の年表 | NVL - Nisei Veterans Legacy
  34. ^ 参考:Brown v. Board of Education (1954): Landmark Case Biography Earl Warren (1891–1974)、2007年1月8日アクセス
  35. ^ 参考:Earl Warren, Michal R. Belknap, 「The Supreme Court Under Earl Warren, 1953-1969 (Chief Justiceships of the Supreme Court)」、出版社 University of South Carolina Press、p.19、ISBN 978-1570035630
  36. ^ Yamato, Sharon. “Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians”. Densho Encyclopedia. 2022年1月9日閲覧。
  37. ^ a b 駒込希『アメリカにおける日系人差別とユダヤ人 -1906年から1988年を中心に-』 早稲田大学〈博士(人間科学) 甲第5617号〉、2019年。 NAID 500001351799https://hdl.handle.net/2065/00062630 
  38. ^ a b c アメリカの戦後補償(リドレス) - ディスカバー・ニッケイ
  39. ^ 三輪昭子「1940年代の日系アメリカ人 ―強制収容所の記憶―」『教養と教育』第3巻、愛知教育大学、2003年3月、43-50頁、hdl:10424/4708NAID 110002323526 
  40. ^ アメリカ「追憶の日」から(米国日系移民と人権に関する考察)
  41. ^ Personal Justice Denied: Report of the Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians - Internment archive
  42. ^ Leslie T. Hatamiya. Righting a Wrong: Japanese Americans and the Passage of the Civil Liberties Act of 1988 (Stanford University Press, 1993), 145.
  43. ^ Commission on Wartime Relocation and Internment of Civilians”. Densho Encyclopedia. 2022年1月9日閲覧。
  44. ^ Go For Broke National Education Center Archived 2009年11月25日, at the Wayback Machine.
  45. ^ Wwii Reparations: Japanese-American Internees
  46. ^ http://blogs.justice.gov/main/archives/1346
  47. ^ 日系人強制収容の不当性を訴えた闘士86歳で逝去 -JanJanニュース-
  48. ^ 「LA郡参事会:日系人の収容決議取り消す」羅府新報
  49. ^ NHK「日系人強制収容 米カリフォルニア州議会が謝罪決議 」2020年2月21日JST
  50. ^ CNN日本語版「第2次大戦中の日系人強制収容、カリフォルニア州が公式謝罪決議採択へ」2020年02月18日JST
  51. ^ 「米国史で最も恥ずべき歴史のひとつ」バイデン大統領、日系米国人の強制収容を非難 読売新聞オンライン2021年2月21日 及び読売新聞2021年2月21日13S版2面、1988年のロナルド・レーガン大統領や1992年の再びジョージ・H・W・ブッシュ大統領の謝罪に続くものとしての「再表明謝罪」
  52. ^ 日本人・日系アメリカ人強制収容80周年記念式典 最初の強制収容対象となったベインブリッジ・アイランドで開催 - Junglecity.com
  53. ^ 日系人強制収容から80周年 バイデン大統領「二度とないように」 | NHK
  54. ^ ペルー大統領、第2次大戦中の日系人「収容所送り」を謝罪”. APF (2011年6月15日). 2016年2月6日閲覧。
  55. ^ Bush To Preserve WWII Internment Camps
  56. ^ Ansel Adams’s Photographs of Japanese-American Internment at Manzanar
  57. ^ ブラジル移民の100年「日米開戦前後の日系社会の状況」
  58. ^ 「43年ブラジル・サントス強制退去 県系375家族が受難 松林さん名簿発見」 ヤフーニュース 2018年3月9日
  59. ^ 井上ひさしが『黄色い鼠』文藝春秋 1977年という抱腹絶倒でありつつも、悲劇に終わる小説にしている。
  60. ^ University of Washington Press: No-No Boy
  61. ^ [1]
  62. ^ Random House Online Catalog: Snow Falling on Cedars
  63. ^ Snow Falling on Cedars, IMDB.com
  64. ^ Mother Jones Magazine - May-Jun 1997 84 pages Vol. 22, No. 3 I SSN 0362-8841
  65. ^ When the Emperor Was Divine, JulieOtsuka.com
  66. ^ [2]
  67. ^ It's Time to Applaud Luke virtuoso Shimabukuro, review of Peace Love Ukulele, by Wayne Harada, January 12, 2011, Honolulu Star Advertiser, accessed 12 October 2015
  68. ^ Allegiance”. Allegiance Musical. Allegiance Musical. 2015年2月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年2月23日閲覧。
  69. ^ Review of Camp Nine by Vivienne Schiffer, by Laura Axelrod, Seattle Post-Intelligencer, 12 November 2012, accessed 12 October 2015
  70. ^ Yamamoto, J.K. (2013年12月11日). “Five-0 Flashes Back to WWII”. Rafu Shimpo. http://www.rafu.com/2013/12/five-0-flashes-back-to-wwii 2015年3月15日閲覧。 
  71. ^ [3]
  72. ^ George Takei Official Website Biography Archived 2015年8月25日, at Archive.is
  73. ^ "To Be Takei: Sundance Review"
  74. ^ Under the Blood Red Sun Official Page
  75. ^ "Under the Blood Red Sun: IMDB"
  76. ^ Relocation, Arkansas, IMDB.com, accessed 12 October 2015
  77. ^ https://kermitroosevelt.net/



日系人の強制収容(第二次大戦)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 13:59 UTC 版)

強制移住」の記事における「日系人の強制収容(第二次大戦)」の解説

「日系人の強制収容」を参照 第二次世界大戦中アメリカ合衆国において、12万人にも及ぶ日系人の強制収容が行われた。南米諸国からも、日系人合衆国送られ施設抑留された。ロナルド・レーガン大統領が「1988年民権法(英語版)」に署名謝罪し補償したが、対象日系アメリカ人限定された。1998年ビル・クリントン大統領が、南米から合衆国に連れて来られ日系人補償対象にした。カナダオーストラリアでも日系人の強制収容が行われた。

※この「日系人の強制収容(第二次大戦)」の解説は、「強制移住」の解説の一部です。
「日系人の強制収容(第二次大戦)」を含む「強制移住」の記事については、「強制移住」の概要を参照ください。


日系人の強制収容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 22:20 UTC 版)

ヨシコ・ウチダ」の記事における「日系人の強制収容」の解説

1941年12月日本軍真珠湾攻撃の後、1942年2月19日ルーズベルト大統領発令した大統領令9066号により、日系人強制立ち退き強制収容)が始まりカリフォルニア州オレゴン州ワシントン州に住む約12万人日系人内陸部10収容所送られることになった日本人来客多くコミュニティ指導者目されていた父タカシ真っ先疑いかけられ真珠湾攻撃当日FBI連行された。最初サンフランシスコ移民抑留地区送られ、さらにモンタナ州ミズーラ捕虜収容所抑留された。ウチダ当初アメリカ生まれ市民権のある二世強制収容されることなどあるはずがない信じていたが、周囲白人からも疑い目を向けられるようになり、大学の友人にすら「真珠湾攻撃について本当に何も知らなかったのか」と言われ深く傷ついた。 ウチダ学業中断余儀なくされたうえ、わずか10日ほどの間に立ち退き準備をしなければならず、一家家財安く売り払ったり、寺院教会預けたりして、タンフォラン仮収容所向かった一家あてがわれ部屋は旧競馬場馬小屋一画だったが、ここで5か月暮らし、ようやく自治組織ができた頃、再び2日2晩の過酷な移動強いられトパーズ戦争移住センター収容された。この強制収容所ユタ州砂漠中にあり、寒さ厳しいうえに、たびたび砂嵐襲われ病気倒れる者も出た医師少なく医療設備整っていなかったため、高齢者一世をはじめとし、かなりの死者出した1943年4月63歳日系一世男性ジェイムズ・ハツキ・ワカサが見張り米兵銃殺された。鉄条網近く歩いていたために脱走企てた誤解されのである米兵軍事裁判かけられたが無罪となった被抑留者銃殺トパーズ収容所では一度だけであったが、ウチダ著書では繰り返し語られ、『トパーズへの旅』では主人公ユキ親友エミ祖父、『写真花嫁』では主人公ハナの夫タロー同じよう鉄条網近く歩いていて銃殺される。 ウチダ収容所小学校の教師であったが、ここでも設備整っていなかったため、授業始めるまでにはまだかなりの作業が必要であった。やがて父タカシ釈放されトパーズ収容所家族のもとに戻ってきた。カリフォルニア大学バークレー校からはトパーズ収容所抑留中学位授与連絡受けた1943年1月日系人による部隊第442連隊戦闘団)が編制されることが発表され強制収容所内で志願兵募集が行われた。強制収容した市民に対して今度は「国のために戦え」というアメリカ政府矛盾憤る者、日系人将来のためにアメリカ対す忠誠心を示す絶好機会と言う者など、激し議論交わされた。『トパーズへの旅』は強制収容所体験に基づく自伝的小説だが、この事件大きく取り上げるために、ウチダが自らを重ねて描いている主人公ユキには(姉ではなく)兄があるという設定にし、彼が第442連隊戦闘団志願して出兵し、続編の『故郷への旅 (Journey Home)』では、彼が身体的にばかりでなく精神的にも深い傷を負い、心を閉ざしている様子描いている。 ウチダはすでにタンフォラン仮収容所にいたときに女子名門大学スミス・カレッジ入学できる可能があった。これは、市民権のある二世場合は、煩雑な申請手続き踏んでアメリカへの忠誠心認められると、就学就職のために収容所を出ることが可能だったからである。彼女はこの時点では、収容所でのコミュニティの生活に貢献するためにこれを断っていたが、トパーズ収容所にいる間に再び申請手続き行い1943年5月スミス・カレッジから研究奨学金受けて大学院入学する許可与えられた。同時に、姉のケイコ就職機会与えられ二人同年6月収容所を出ることになった1年余の収容生活で大学復帰できたことは、当時日系人のなかでは幸運であったといえる。数か月後には両親収容所出てソルトレイクシティユタ州)に居を構えることになった。これは、一部には、収容生活が長引くにつれ、管理事務所白人仕事をしていた父タカシ敵対視する日系人出てきて、脅迫を受けるようになったせいであるとされる

※この「日系人の強制収容」の解説は、「ヨシコ・ウチダ」の解説の一部です。
「日系人の強制収容」を含む「ヨシコ・ウチダ」の記事については、「ヨシコ・ウチダ」の概要を参照ください。


日系人の強制収容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/12 04:11 UTC 版)

ミネ・オオクボ」の記事における「日系人の強制収容」の解説

1941年12月日本軍真珠湾攻撃の後、1942年2月19日ルーズベルト大統領発令した大統領令9066号により、日系人強制立ち退き強制収容)が始まりカリフォルニア州オレゴン州ワシントン州に住む約12万人日系人内陸部10収容所送られた。このうち78%が市民権有する二世三世であった戒厳令にあってオオクボ壁画完成するために特別に夜間外出許可されたが、「5月1日金曜日午前1130分」の立ち退き命令応じるために、わずか3日荷物をまとめなければならなかった。父タメツグは逮捕されモンタナ州フォート・ミズーラ抑留キャンプ送られた。兄ベンジワイオミング州ハートマウンテン移住センター収容された(彼はここで美術教室開いた)、オオクボと弟トクカリフォルニア州サンブルーノのタンフォラン仮収容所(旧タンフォラン競馬場英語版))、他の家族アリゾナ州ポストン戦争強制収容センター送られた。 タンフォラン仮収容所では厩肥の臭いのする厩舎一画あてがわれ干し草入ったの上で寝るなど辛い生活を強いられながらも、共に収容され小圃千浦、他の画家とともに収容所内で美術教室開いた。 タンフォラン仮収容所に数か月抑留された後、ユタ州砂漠建造されトパーズ戦時移住センター送られた。冬は冷え込みが強い上に、たびたび砂嵐襲われる厳しい環境である。1942年9月11日開所1945年10月31日閉鎖され最大時の収容人数は8,130人で、その多くカリフォルニア州アラミダサンフランシスコサンマテオ地域出身者であった収容所有刺鉄線囲まれ武装監視員監視塔から見張っている。タール塗り簡易バラック住みトイレ仕切りがないなどプライバシーはほとんど存在しない食事時間制限されているために食堂前に長蛇の列ができる。忠誠審査(登録)、授業様子オオクボはここでも美術教室開いた)、オオクボはこれらすべてをスケッチブック描いていった。カメラ持ち込み禁止されていたので、その場ペン画木炭画水彩画描いた。タンフォラン仮収容所描いたものも併せて1年半ほどの間に描いた絵は2,000及んだ。 これらは後に画集市民13660号』に収められることになるが、この番号オオクボ家族番号である。統制局へ申請に行くと家族番号書かれ20ほど渡され、これをすべての荷物貼り付け1枚各人上着襟に付けなければならない。名前(アイデンティティプライバシー個人の尊厳)を奪われ、ただの番号として「市民何号」と呼ばれるのであるオオクボまた、二世のジム・ヤマダ、タロウ・カタヤマらとともに季刊文芸誌トレック』を編集したトパーズではこの他新聞『トパーズ・タイムズ』、『オール・アボード』が刊行された。『トレック』は第1巻第1号1942年12月号)、第2号1943年2月号)、第3号1943年6月号)の3回終刊となったが、1部40ページ程度充実した内容で、表紙画含みオオクボの絵が多数掲載された。トシオ・モリの『カリフォルニア州ヨコハマ町所収作品子供たちよ」が最初に発表されたのも『トレック』で、作品挿絵入れたのはミネ・オオクボとされるこうしたオオクボの絵がサンフランシスコ美術館開催され企画展展示され受賞作品として日刊新聞サンフランシスコ・クロニクル』に掲載された。さらに同紙の日曜版この世界』でオオクボ作品特集組まれ以後、絵に解説入れてたびたび同紙に掲載された。これに目を留めた『フォーチュン』誌の編集委員から、採用申し出があった。国吉康雄八島太郎とともに同誌の日本特集号を編集する仕事であった。『フォーチュン』誌に掲載され日系人収容所の絵は大きな反響呼び1944年8月サンフランシスコ美術展国吉八島オオクボ特別展開催された。こうして、オオクボは『フォーチュン』誌の協力得てトパーズ収容所から解放された。市民権のある二世は、煩雑な申請手続き踏んでアメリカへの忠誠心認められると、就学就職のために収容所を出ることが可能だったからである。

※この「日系人の強制収容」の解説は、「ミネ・オオクボ」の解説の一部です。
「日系人の強制収容」を含む「ミネ・オオクボ」の記事については、「ミネ・オオクボ」の概要を参照ください。


日系人の強制収容

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 04:03 UTC 版)

ヒサエ・ヤマモト」の記事における「日系人の強制収容」の解説

1941年12月日本軍真珠湾攻撃の後、1942年2月19日ルーズベルト大統領発令した大統領令9066号により、日系人強制立ち退き強制収容)が始まりカリフォルニア州オレゴン州ワシントン州に住む約12万人日系人内陸部10収容所送られた。このとき、アメリカ政府ドイツ系イタリア系住民に対して同じよう措置を取らなかったことから、これが「戦争成り行きというより根強い人種偏見から出ていたことは、1942年始めの何か月間で明らかだったとされるヤマモトは、1942年20歳のときに他の日系人家族とともにアリゾナ州ポストン戦争強制収容センター収容され、ここで3年間暮らすことになったこの間、弟は、コロラド州サトウキビ畑での労働課せられた後、第442連隊戦闘団志願しイタリアで19歳戦死した第442連隊戦闘団は、母国であるアメリカへの忠誠証明するために、収容所において日系二世らにより編成された部隊であった。このときヤマモトは他の2人の兄弟と共にマサチューセッツ州滞在していた。市民権のある二世場合は、煩雑な申請手続きにより、アメリカへの忠誠心認められると、就学就職のために収容所を出ることが可能だったからである。だが、悲嘆暮れた父に懇願され、再び収容所に戻ることになったヤマモトは、こうした経験通して人種偏見どのような事態つながり得るかを考えようになったという。この間ヤマモト収容所作家劇作家ワカコ・ヤマウチと共に『ポストン・クロニクル』誌を発行し執筆活動続けていた。

※この「日系人の強制収容」の解説は、「ヒサエ・ヤマモト」の解説の一部です。
「日系人の強制収容」を含む「ヒサエ・ヤマモト」の記事については、「ヒサエ・ヤマモト」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「日系人の強制収容」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「日系人の強制収容」の関連用語

日系人の強制収容のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



日系人の強制収容のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの日系人の強制収容 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの強制移住 (改訂履歴)、ヨシコ・ウチダ (改訂履歴)、ミネ・オオクボ (改訂履歴)、ヒサエ・ヤマモト (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS