日系人の強制収容
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日系人の強制収容(にっけいじんのきょうせいしゅうよう、英: Japanese Internment)とは、第二次世界大戦時において連合国、特にアメリカ合衆国やアメリカの影響下にあったペルーやブラジル、メキシコなどのラテンアメリカ諸国、またカナダやオーストラリア、ニュージーランドなどのイギリス連邦において行われた、日系人や日本人移民に対する強制収容所への収監政策で、予防拘禁の一種である。1942年から終戦後の1949年に亘って実施された。
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日系人の強制収容(第二次大戦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/10 13:59 UTC 版)
「強制移住」の記事における「日系人の強制収容(第二次大戦)」の解説
「日系人の強制収容」を参照 第二次世界大戦中、アメリカ合衆国において、12万人にも及ぶ日系人の強制収容が行われた。南米諸国からも、日系人が合衆国に送られ施設に抑留された。ロナルド・レーガン大統領が「1988年の民権法(英語版)」に署名。謝罪し補償したが、対象は日系アメリカ人に限定された。1998年、ビル・クリントン大統領が、南米から合衆国に連れて来られた日系人も補償の対象にした。カナダやオーストラリアでも日系人の強制収容が行われた。
※この「日系人の強制収容(第二次大戦)」の解説は、「強制移住」の解説の一部です。
「日系人の強制収容(第二次大戦)」を含む「強制移住」の記事については、「強制移住」の概要を参照ください。
日系人の強制収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/26 22:20 UTC 版)
1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃の後、1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号により、日系人の強制立ち退き(強制収容)が始まり、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に住む約12万人の日系人が内陸部の10の収容所に送られることになった。日本人の来客が多く、コミュニティの指導者と目されていた父タカシは真っ先に疑いをかけられ、真珠湾攻撃の当日にFBIに連行された。最初はサンフランシスコの移民抑留地区に送られ、さらにモンタナ州ミズーラの捕虜収容所に抑留された。ウチダは当初、アメリカに生まれ、市民権のある二世が強制収容されることなどあるはずがないと信じていたが、周囲の白人からも疑いの目を向けられるようになり、大学の友人にすら「真珠湾攻撃について本当に何も知らなかったのか」と言われ、深く傷ついた。 ウチダは学業の中断を余儀なくされたうえ、わずか10日ほどの間に立ち退きの準備をしなければならず、一家は家財を安く売り払ったり、寺院や教会に預けたりして、タンフォラン仮収容所に向かった。一家にあてがわれた部屋は旧競馬場の馬小屋の一画だったが、ここで5か月暮らし、ようやく自治組織ができた頃、再び2日2晩の過酷な移動を強いられ、トパーズ戦争移住センターに収容された。この強制収容所はユタ州の砂漠の中にあり、寒さが厳しいうえに、たびたび砂嵐に襲われ、病気に倒れる者も出た。医師が少なく医療設備も整っていなかったため、高齢者の一世をはじめとし、かなりの死者を出した。1943年4月、63歳の日系一世の男性ジェイムズ・ハツキ・ワカサが見張りの米兵に銃殺された。鉄条網の近くを歩いていたために脱走を企てたと誤解されたのである。米兵は軍事裁判にかけられたが無罪となった。被抑留者の銃殺はトパーズ収容所では一度だけであったが、ウチダの著書では繰り返し語られ、『トパーズへの旅』では主人公ユキの親友エミの祖父、『写真花嫁』では主人公ハナの夫タローが同じように鉄条網の近くを歩いていて銃殺される。 ウチダは収容所の小学校の教師であったが、ここでも設備が整っていなかったため、授業を始めるまでにはまだかなりの作業が必要であった。やがて父タカシが釈放されてトパーズ収容所の家族のもとに戻ってきた。カリフォルニア大学バークレー校からはトパーズ収容所抑留中に学位授与の連絡を受けた。 1943年1月、日系人による部隊(第442連隊戦闘団)が編制されることが発表され、強制収容所内で志願兵の募集が行われた。強制収容した市民に対して今度は「国のために戦え」というアメリカ政府の矛盾に憤る者、日系人の将来のためにアメリカに対する忠誠心を示す絶好の機会だと言う者など、激しい議論が交わされた。『トパーズへの旅』は強制収容所体験に基づく自伝的小説だが、この事件を大きく取り上げるために、ウチダが自らを重ねて描いている主人公ユキには(姉ではなく)兄があるという設定にし、彼が第442連隊戦闘団に志願して出兵し、続編の『故郷への旅 (Journey Home)』では、彼が身体的にばかりでなく精神的にも深い傷を負い、心を閉ざしている様子を描いている。 ウチダはすでにタンフォラン仮収容所にいたときに女子名門大学スミス・カレッジに入学できる可能があった。これは、市民権のある二世の場合は、煩雑な申請手続きを踏んでアメリカへの忠誠心が認められると、就学や就職のために収容所を出ることが可能だったからである。彼女はこの時点では、収容所でのコミュニティの生活に貢献するためにこれを断っていたが、トパーズ収容所にいる間に再び申請手続きを行い、1943年5月にスミス・カレッジから研究奨学金を受けて大学院に入学する許可が与えられた。同時に、姉のケイコも就職の機会が与えられ、二人は同年6月に収容所を出ることになった。1年余の収容生活で大学に復帰できたことは、当時の日系人のなかでは幸運であったといえる。数か月後には両親も収容所を出て、ソルトレイクシティ(ユタ州)に居を構えることになった。これは、一部には、収容生活が長引くにつれ、管理事務所で白人と仕事をしていた父タカシを敵対視する日系人が出てきて、脅迫を受けるようになったせいであるとされる。
※この「日系人の強制収容」の解説は、「ヨシコ・ウチダ」の解説の一部です。
「日系人の強制収容」を含む「ヨシコ・ウチダ」の記事については、「ヨシコ・ウチダ」の概要を参照ください。
日系人の強制収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/03/12 04:11 UTC 版)
1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃の後、1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号により、日系人の強制立ち退き(強制収容)が始まり、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に住む約12万人の日系人が内陸部の10の収容所に送られた。このうち、78%が市民権を有する二世、三世であった。戒厳令下にあって、オオクボは壁画を完成するために特別に夜間外出が許可されたが、「5月1日金曜日午前11時30分」の立ち退き命令に応じるために、わずか3日で荷物をまとめなければならなかった。父タメツグは逮捕され、モンタナ州のフォート・ミズーラ抑留キャンプに送られた。兄ベンジはワイオミング州のハートマウンテン移住センターに収容された(彼はここで美術教室を開いた)、オオクボと弟トクはカリフォルニア州サンブルーノのタンフォラン仮収容所(旧タンフォラン競馬場(英語版))、他の家族はアリゾナ州のポストン戦争強制収容センターに送られた。 タンフォラン仮収容所では厩肥の臭いのする厩舎の一画をあてがわれ、干し草の入った袋の上で寝るなど辛い生活を強いられながらも、共に収容された小圃千浦、他の画家とともに収容所内で美術教室を開いた。 タンフォラン仮収容所に数か月間抑留された後、ユタ州の砂漠に建造されたトパーズ戦時移住センターに送られた。冬は冷え込みが強い上に、たびたび砂嵐に襲われる厳しい環境である。1942年9月11日に開所、1945年10月31日に閉鎖され、最大時の収容人数は8,130人で、その多くがカリフォルニア州のアラミダ、サンフランシスコ、サンマテオ地域の出身者であった。収容所は有刺鉄線に囲まれ、武装監視員に監視塔から見張っている。タール塗りの簡易バラックに住み、トイレに仕切りがないなどプライバシーはほとんど存在しない。食事の時間が制限されているために食堂の前には長蛇の列ができる。忠誠審査(登録)、授業の様子(オオクボはここでも美術教室を開いた)、オオクボはこれらすべてをスケッチブックに描いていった。カメラの持ち込みは禁止されていたので、その場でペン画、木炭画、水彩画を描いた。タンフォラン仮収容所で描いたものも併せて1年半ほどの間に描いた絵は2,000枚に及んだ。 これらは後に画集『市民13660号』に収められることになるが、この番号はオオクボの家族番号である。統制局へ申請に行くと家族番号が書かれた札を20枚ほど渡され、これをすべての荷物に貼り付け、1枚は各人が上着の襟に付けなければならない。名前(アイデンティティ、プライバシー、個人の尊厳)を奪われ、ただの番号として「市民何号」と呼ばれるのである。 オオクボはまた、二世のジム・ヤマダ、タロウ・カタヤマらとともに季刊文芸誌『トレック』を編集した。トパーズではこの他、新聞『トパーズ・タイムズ』、『オール・アボード』が刊行された。『トレック』は第1巻第1号(1942年12月号)、第2号(1943年2月号)、第3号(1943年6月号)の3回で終刊となったが、1部40ページ程度の充実した内容で、表紙画を含み、オオクボの絵が多数掲載された。トシオ・モリの『カリフォルニア州ヨコハマ町』所収作品「子供たちよ」が最初に発表されたのも『トレック』で、作品に挿絵を入れたのはミネ・オオクボとされる。 こうしたオオクボの絵がサンフランシスコ美術館で開催された企画展に展示され、受賞作品として日刊新聞『サンフランシスコ・クロニクル』に掲載された。さらに同紙の日曜版『この世界』でオオクボの作品の特集が組まれ、以後、絵に解説を入れてたびたび同紙に掲載された。これに目を留めた『フォーチュン』誌の編集委員から、採用の申し出があった。国吉康雄、八島太郎とともに同誌の日本特集号を編集する仕事であった。『フォーチュン』誌に掲載された日系人収容所の絵は大きな反響を呼び、1944年8月にサンフランシスコ美術展で国吉、八島、オオクボの特別展が開催された。こうして、オオクボは『フォーチュン』誌の協力を得て、トパーズ収容所から解放された。市民権のある二世は、煩雑な申請手続きを踏んでアメリカへの忠誠心が認められると、就学や就職のために収容所を出ることが可能だったからである。
※この「日系人の強制収容」の解説は、「ミネ・オオクボ」の解説の一部です。
「日系人の強制収容」を含む「ミネ・オオクボ」の記事については、「ミネ・オオクボ」の概要を参照ください。
日系人の強制収容
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/20 04:03 UTC 版)
「ヒサエ・ヤマモト」の記事における「日系人の強制収容」の解説
1941年12月の日本軍の真珠湾攻撃の後、1942年2月19日、ルーズベルト大統領が発令した大統領令9066号により、日系人の強制立ち退き(強制収容)が始まり、カリフォルニア州、オレゴン州、ワシントン州に住む約12万人の日系人が内陸部の10の収容所に送られた。このとき、アメリカ政府はドイツ系やイタリア系の住民に対しては同じような措置を取らなかったことから、これが「戦争の成り行きというより根強い人種偏見から出ていたことは、1942年の始めの何か月間で明らかだった」とされる。 ヤマモトは、1942年、20歳のときに他の日系人の家族とともに、アリゾナ州のポストン戦争強制収容センターに収容され、ここで3年間暮らすことになった。この間、弟は、コロラド州のサトウキビ畑での労働を課せられた後、第442連隊戦闘団に志願し、イタリアで19歳で戦死した。第442連隊戦闘団は、母国であるアメリカへの忠誠を証明するために、収容所において日系二世らにより編成された部隊であった。このときヤマモトは他の2人の兄弟と共にマサチューセッツ州に滞在していた。市民権のある二世の場合は、煩雑な申請手続きにより、アメリカへの忠誠心が認められると、就学や就職のために収容所を出ることが可能だったからである。だが、悲嘆に暮れた父に懇願され、再び収容所に戻ることになった。ヤマモトは、こうした経験を通して、人種偏見がどのような事態につながり得るかを考えるようになったという。この間もヤマモトは収容所で作家・劇作家のワカコ・ヤマウチらと共に『ポストン・クロニクル』誌を発行し、執筆活動を続けていた。
※この「日系人の強制収容」の解説は、「ヒサエ・ヤマモト」の解説の一部です。
「日系人の強制収容」を含む「ヒサエ・ヤマモト」の記事については、「ヒサエ・ヤマモト」の概要を参照ください。
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