ポートモレスビー作戦とは? わかりやすく解説

ポートモレスビー作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 09:30 UTC 版)

ポートモレスビー作戦(ポートモレスビーさくせん)は、第二次世界大戦中のニューギニア戦線において、日本軍連合国軍とがポートモレスビーの支配を巡って行った戦闘。当時はスタンレー作戦と呼ばれ、連合軍側の名称を和訳して、前半をココダ道の戦い (Kokoda Track campaign)、後半をブナとゴナの戦い (Battle of Buna-Gona)とも呼ぶ。


注釈

  1. ^ 堀井少将は第17軍に対して、補給は困難であり、ブナから自動車道が推進されぬ限り陸路進攻は不可能であろう、と報告したにもかかわらず出された攻略命令であり、補給を考えるのは現実的ではないので、携行食料だけで進軍する方法を採った。
  2. ^ 補給ができないのと同様、傷病者の後送もできないので前送していた。
  3. ^ 連隊副官蜂須賀忠大尉は、オイビ南に位置する高地の陣地を、「オイビの線」と表記。
  4. ^ 公刊戦史叢書「南太平洋陸軍作戦」と小岩井 光夫著「ニューギニア戦記」は所々に食い違いがあるが、食い違いは小岩井少佐の戦記に限ったことではない。例えば、堀井少将の亡くなった際の状況についても、実際にはただ一人生き残った従卒からの伝聞に過ぎず、こういった状況のなかではいたしかた無いことである。

出典

  1. ^ 戦史叢書 14 p.180、p.191
  2. ^ ココダ 遙かなる戦いの道 p.109
  3. ^ #戦史叢書南東方面海軍作戦(1)395頁
  4. ^ Anderson 2014, pp. 18–19.
  5. ^ 戦史叢書 14 p.188
  6. ^ 御田重宝著『東部ニューギニア戦』122頁および防衛庁公刊戦史
  7. ^ 戦史叢書 14 p.340
  8. ^ 戦史叢書 14 p.356
  9. ^ 御田重宝著『東部ニューギニア戦』131頁
  10. ^ 御田重宝 進攻篇 172頁
  11. ^ ココダ 遙かなる戦いの道 p.382
  12. ^ ココダ 遙かなる戦いの道 p.384
  13. ^ a b ココダ 遙かなる戦いの道 p.340
  14. ^ 戦史叢書 28 p.244
  15. ^ #戦史叢書83ガ島戦419頁
  16. ^ a b #叢書83ガ島戦426-427頁『混成第二十一旅団第一次輸送』
  17. ^ #S1709十八戦隊日誌(7)pp.11-13『RA陸軍第二次輸送 乙護衛隊〔指揮官8dg司令 兵力8dg(満潮欠)磯波電〕』
  18. ^ a b c d #戦史叢書83ガ島戦428-429頁『混成第二十一旅団第三次輸送』
  19. ^ #電詳報其弍(1)1712p.7『〇八二五|主砲発戰発砲機銃打方始ム朝潮艦尾爆撃ヲ受ク(四個) 風-夕-磯 朝-荒-電』
  20. ^ #S1709十八戦隊日誌(7)pp.13-15『二.RA陸軍第三次輸送(略)10dg(秋雲巻雲欠)8dg(満潮欠)磯波電ハ陸軍山縣兵団第二次進出隊約一〇〇〇名及第十八軍幕僚ノ一部ヲ分乗尚揚陸舟艇及急速荷役ノ見地ヨリ糧食ハ「ドラム」罐入トシテ搭載10dg司令指揮下ニ八日〇八四三〇RR出撃開距離併陣列速力十八節(磯波電航続力ノ関係上此レ以上ノ速力使用ハ困難ナリキ)ニテ南下中〇八一五地點「ケケチ11」ニ於テ敵B-24一ヲ発見朝潮ハ其ノ外観行動共ニ味方機ナルヤノ疑アリテ増速及警戒配備下令ニ分秒ノ遅滞アリタル所敵機高度約二〇〇〇米ニテ直進攻撃シ来レル爲回避反撃充分ナラズ別項ノ被害ヲ受ケタルモ機関ニ異状ナカリシヲ以テ豫定通進撃続行』
  21. ^ #S1709八艦隊日誌(3)p.36『12.8|朝潮|中破|被爆』
  22. ^ #高松宮日記5巻293頁
  23. ^ #電詳報其弍(2)1712p.79『荒潮十二月十四日一三一八(宛略)一一四〇「IRR」島?ニ於テ敵機ト交戦中至近弾ニ依リ被害左ノ通 戦死者一命重傷四軽傷二 二一〇〇頃「RR」着ノ予定入港後重傷者直ニ送院方御手配ヲ乞フ』
  24. ^ ココダ 遙かなる戦いの道 p.420
  25. ^ 『「安田陸戦隊司令」伝』 p.484
  26. ^ 米軍が記録したニューギニアの戦い p.36
  27. ^ 『「安田陸戦隊司令」伝』 p.486
  28. ^
    「これより我が方の戦死傷者は急速的に増加せしも、後方に砲弾盛に落下するに及び後送すること能わず、仮包帯のまま倒るるまで銃を執る状態なり。乾パン既に尽き、生水を飲み、生米を囓りつつ戦闘を続く」
    「山本部隊の主力には、マラリア或は胃腸病にかかれる者多く、小康を得ありし者も、連日の不眠と糧食の不十分と、更に連夜来襲ある猛烈なスコールに依る湿気等に依り、病気再発する者続出せり」
    「ああ、敵弾に倒れる前に勇士達の多くは病魔のためにあたら戦闘力を失ったのである。『弾丸(たま)に死んでも病に死ぬな』を武人の本懐とする皇軍の勇士達である。その心中は察するだに腸(はらわた)の千切れるものがあるではないか」
    「上陸以来、四箇月、前人未踏のジャングル戦に辛酸労苦の限りを嘗めつくしたわが将兵は、悪性マラリヤと糧食補給難によって体力の消耗憔悴は極限に達していた。数日間の絶食は希ではなかった」
    『陸軍報道班員手記 ニューギニア血戦記』(1943年出版)より引用



ポートモレスビー作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/06 07:30 UTC 版)

小岩井光夫」の記事における「ポートモレスビー作戦」の解説

第5師団指揮下を離れフィリピン攻略増援のため、歩兵第9旅団河村参郎少将率い河村支隊基幹としてダバオに在った歩兵第41連隊は、1942年昭和17年8月4日にダリアオンからパラオ経由8月17日午後ラバウル到着し、ポートモレスビー作戦担当南海支隊配属された。堀井富太郎少将率い南海支隊主力は、同日歩兵第41連隊到着先立ちラバウル発ちブナ向かっていたため、歩兵第41連隊南海支隊主力追い8月19日ブナ向いポートモレスビー作戦に参戦したこの間8月18日に、歩兵第28連隊一部900から成る一木支隊は、ガダルカナル島上陸し8月21日には壊滅している。 南海支隊栄養失調マラリアによる犠牲者出しながらも順調に南下続けていた。しかし、食糧尽きかけ一刻早いポートモレスビー総攻撃切望しオーエンスタンレー山脈の北に待機指示対しポートモレスビーまで約50キロのイオリバイワに迫っていた南海支隊にとって、9月13日川口支隊ガダルカナル島夜襲失敗の報は驚愕であった夜襲失敗によりラバウル方面招致中の青葉支隊第2師団主力ガダルカナル島方面向けられることになり、ニューギニア戦線見捨てられてしまう事態となったのである。なお、9月16日には歩兵144連隊がイオリバイワの敵陣奪取したが、倉庫は空だった。 まず、歩兵第41連隊主力9月16日撤退始めオーエンスタンレー山脈の峠に陣地構築し米豪軍を食い止めることを任務とした歩兵144連隊第2大隊基幹スタンレー支隊編成され陣地造り先発し小岩井指揮する歩兵第41連隊第2大隊南海支隊後衛となり踏みまっている間に撤退準備が行われた。撤退9月25日開始され10月4日ココダ到着した。しかし10月下旬になると峠の陣地スタンレー支隊への米豪軍の攻撃始まりスタンレー支隊撤退し南海支隊はクムシ川河口付近まで後退することになったこのため10月25日歩兵第41連隊部隊が峠の陣地急行し小岩井等が後衛となった小岩井等の後衛部隊は、10月28日まで峠の陣地踏み留まっ後、10月29日早朝にイスラバ着、夜明けまで陣地構築した追撃はなかった。翌10月30日になるとマラリア発熱するものが出て病人後退させたため後衛部隊小岩井以下16になっていた。しかしここでクムシ川河口付近まで後退予定変わり、オイビに防衛線を構築することとなりオイビに後退11月10日にはオイビの陣地からも撤退またしても小岩井指揮歩兵第41連隊第2大隊後衛が命ぜられた。 小岩井は、まず自隊の大隊砲を捨て死んで武器放さないことが本分教えられ、銃を放したがらない疲労した兵を見つけると、自隊の兵他隊の兵を問わず銃を奪い捨ててしまった。視認効かないジャングル銃撃戦では発射できる弾丸の量が全てで、米豪軍の自動小銃対し旧式三八式歩兵銃など戦力的には殆ど無力であり、元気なものなら武器携行していることが精神的な支えになるものの、歩くことがやっとの兵には邪魔なものでしが無いからである。こうして撤退続け高砂族一人教えられ方法で筏を作りクムシ川を渡河し、現地の人の案内ブナ西方20キロゴナ向かい11月24日には偶然に連隊主力遭遇残り少ない兵力ではあるが歩兵第41連隊一つになり11月26日ゴナにたどりついた。そして、第1大隊ゴナ残しその夜回航された大発に乗艇しブナゴナ中間地点にあるギルワに到着したこの頃事態容易ならざることにようやく気づいた大本営は、第17軍にはソロモン諸島のみを任せニューギニア戦線担当第18軍と、第17軍第18軍統率する第8方面軍編成した新設され第18軍は、欠員となっている指揮官支隊補充員に加え、第38師団歩兵229連隊独立混成21旅団増派決め駆逐艦による輸送行った。だが、敵襲のため輸送難航し状況好転しなかった。そして12月23日にはブナ地区からラエ・サラモア方面への撤退決定され海軍の第7根拠地隊駐屯しているだけだったラエ・サラモア方面に第51師団を向けることにした。 すでに12月8日にバサブアは玉砕しその後12月の末にはブナ飛行場米豪軍に奪取され歩兵144連隊後任連隊長山本重省大佐指揮増援部隊壊滅した残ったギルワは三つ陣地分れていた。海岸陣地では、山県栗花生少将以下の独立混成21旅団独立工兵15連隊等を加えた部隊傷病者後送にあたっており、中央陣地には南海支隊大部分が、南西陣地には塚本初雄中佐指揮する歩兵144連隊主力が陣取っていた。 地域全体指揮は、独立混成21旅団長山県少将とっていた。中央陣地南海支隊指揮後任支隊長である小田健作少将とっていたが、1943年昭和18年1月15日には指揮独立高射砲47大隊長の淵山中佐に任せ小田少将以下南海支隊幹部海岸陣地後退したまた、連隊長矢沢清美大佐ブナ救援から戻ったマラリア発病し後送されたため、歩兵第41連隊小岩井指揮していた。そして淵山中佐は高射砲大隊長地上戦不慣れなため、小岩井中央陣地からの撤退指揮をすることになった塚本中佐指揮部隊オーエンスタンレー山脈からの撤退以来独断行動することが多くなっていた。 米豪軍の包囲圧力日増しに強まり海岸陣地中央陣地分断されしまっていた1943年昭和18年1月19日夜、海岸陣地小田支隊長から中央陣地小岩井命令届いた。「明晩10時をもってギルワから撤退せよということであった故意手違いブナ地区からの撤退について事前に知らされておらず、1月16日には第18軍司令部決別電報打ち全員揃って玉砕覚悟していた中央陣地動揺広がった傷病者扱い問題であり、助かる望み有るものと無いものとが分かれ団結崩れてしまった。だが「動けないものは置いて行け」との命令があり、置いて行くほかに道は無かった衰弱し自決もままらない者が処分懇願し、その銃声あちこちから聞こえた1月20日午後から豪雨になり夜も続いた午後8時に撤退部隊集合した一時は4,000人以上いた将兵であったが、この時集まったのは1,000余りになっていた。降り続く天の助けだった目と鼻の先にいる敵にも気づかれなかった。小岩井倒れたら、指揮村瀬少佐近藤大尉林大尉の順でとることにした。歩兵第41連隊連隊旗分解し三つ分け旗手有田少尉の他森田中尉と垣井少尉携行したおおよそ2時間かけて終結確認行い小田支隊長からの命令午後10時行動開始した虎の尾を踏む思い手探り一寸ずりに闇の中進み深夜0時頃までにやっと先頭700800メートル進んだあちこち電話線敷設されていたので電話線には触れないよう指示した午前1時頃ようやく全員が敵の陣地線を通過した。この地点は、野戦病院のあった場所の南に当たり、埋葬する人手がなく死体放棄した場所であった。その死体腐敗臭で息もつまりそうだった。「死んだ戦友達の霊が守ってくれたのだ」と語りあった。夜明けまでに3キロほど進んだ電話線いたるところ敷設されており、大規模な軍が周到な準備のもとに攻撃しているのが察せられた。午前11時頃、海岸の方から重機音が聞こえた米豪が行く手に自動車道路造っているのだった日暮れまで森林中に円陣敷いて待機した。 ここで隊を二つ分け小岩井加藤少佐それぞれ1隊ずつを率いて進んだが、加藤少佐率いる隊の後ろの隊がいつのまに小岩井の隊の後ろになっていた。斥候が敵の歩哨と出くわし睨み合いになったこともあったが、何を思ったか敵の歩哨戻ってしまったすきに全員道路横断ジャングルに潜み西へ西へ進んだ次の日の22日午後からは、大隊単位ぐらいの100人前後に分け分進することとした。しかしやがて何組かが合流し概ね2組縦隊となった最後難関のパサブア-ソプタ道を、23日24日2日間かけて突破した。この時既に食糧尽き落伍者出始めた。小岩井等の隊は1月25日にはじめて部落発見し食を得たその後現地人踏み分け道を通り、オイビの陣地から撤退した通ったジャガラハンボの部落到着、しかし部落一変し住民一人もいなかった。ここから食糧探しながらの行軍で、進度遅々としてはかどらなかった。だがクムシ川沿いに道が続いており迷うことはなかった。分進していた部隊次々集まり出発当初編制戻ったが、人数目に見え減っていた。海岸陣地から撤退した者も集まってきたが、その数はあまりにも少なかった撤退命令待たず独断退去し塚本中佐指揮下の部隊将兵死体あちこち倒れていた。その中には野戦病院退院後、歩兵144連隊主力部隊行動を共にしていた歩兵第41連隊兵士死体もあり、暗澹たる思いであった1月28日にクムシ川河口やや南方のバクンバリにたどりつき、1月30日にかけてクムシ川河口付近集結、第51師団先遣隊一部部隊収容され2月8日集結地点のマンバレーに到着したその後歩兵第41連隊ラバウル集結病死含め4,000人以上が戦死傷病後送された者が約300人、残った者は200人に満たなかった。

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ポートモレスビー作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 10:10 UTC 版)

辻政信」の記事における「ポートモレスビー作戦」の解説

海軍からの要請を受け陸軍新たに第十七軍を編成しニューギニア島南岸ポートモレスビー攻略当たらせることになった(ポートモレスビー作戦)。補給上の見地からポートモレスビー占領は困難であると見ていた大本営では、十七に対して作戦研究命じたが、十七軍に命令交付するためミンダナオ島ダバオ到着した辻は、直ち作戦実施するよう指導した田中作戦部長はこの辻の独断専行疑問視したが、服部作戦課長現地にいる辻を信頼しこれを追認した。ニューギニア島北岸ブナから島を縦断するオーエン・スタンリー山脈超えポートモレスビーに至る侵攻作戦は完全な失敗終わった。辻自身駆逐艦朝凪便乗してブナ視察むかったが、到着直前空襲受けて朝凪損傷、辻も頭部戦傷負った

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ポートモレスビー作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 19:15 UTC 版)

ニューギニアの戦い」の記事における「ポートモレスビー作戦」の解説

詳細は「ポートモレスビー作戦」を参照 日本軍中止になったMO作戦代わる作戦として、ニューギニア島ソロモン海側から最高峰4,000メートルオーウェンスタンレー山脈越えてポートモレスビーまで直線距離にして220キロ陸路侵攻するという「レ号作戦(別名、スタンレー作戦)」を立案した5月18日ソロモン諸島方面及び東部ニューギニア方面担当する戦略兵団として第17軍編成され南海支隊指揮下に置いた第17軍司令官百武晴吉中将初め南海支隊に対して「リ号研究」と称した偵察命じたが、大本営参謀辻政信中佐作戦即時実行指示この影響第17軍はろくな事前調査もないまま7月18日ポートモレスビー攻略命令発した7月21日先遣隊独立工兵15連隊ブナ近くゴナ上陸し8月18日南海支隊主力上陸した南海支隊オーウェンスタンレー山脈標高2,000メートル上の峠を越え9月16日ポートモレスビーの灯を遠望できる直線距離50キロのイオリバイワまで進撃した。しかしそこで食糧弾薬補給途絶えた馬匹人力による搬送はすでに地形的に限界を超えていた。また8月アメリカ軍ガダルカナル島上陸によりソロモン諸島の戦い激化作戦機引き抜かれ制空権失い空輸による補給不可能だった南海支隊には後退命令出され将兵飢餓マラリア苦しみながら元来山道引き返した。 さらに10月アメリカ軍32歩兵師団一部山脈越えて空輸され南海支隊先回りしてブナ窺う形勢となった第17軍南海支隊に対してブナへの転進指示した転進途上南海支隊長堀少将は、11月19日カヌーでクムシ川を下り海路ブナ向かったが、突風あおられカヌー転覆し溺死した

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