ラバウル方面とは? わかりやすく解説

ラバウル方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/05 07:14 UTC 版)

笹井醇一」の記事における「ラバウル方面」の解説

1942年4月1日台南空新編の第25航空戦隊に編入され笹井隊員小牧丸でラバウル移動する笹井は、移動中に書いた手紙に「四月一日異動士官搭乗員隊長分隊長以下の全部内地方面帰ってしまい開戦以来居残りは私一人大きな顔をしております然し始めから生死をともにした隊長或は自分の手足としていた列機が全部なくなり稍々淋しい気にならん事はないのですが」「大分実戦経験積んだ今度思う存分やれると思います。」と書いている。 4月16日台南空ニューブリテン島ラバウル進出17日笹井中隊ラバウル前進基地となるニューギニア島東部ラエ基地進出。この基地から連合軍最前線ポートモレスビー基地まで零戦片道45分至近距離であり、5月から7月にかけて台南空は、ポートモレスビー攻撃連合軍ラエ基地爆撃邀撃行った4月18日ラバウル基地上空米陸軍33爆撃飛行隊マーチンB-26マローダー爆撃機単機迎撃し、左エンジン発火させ、同機種の撃墜報告した照合によると、ウィリアム・ガーネット大尉機長とする機体被弾により左エンジン発火して撃墜されており、同機撃墜世界初であった5月25日ラエ基地上空米陸軍第3爆撃大隊ノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機5機の協同撃墜報告5月28日米陸軍33爆撃飛行隊B-26爆撃機6機編隊ラエ基地上空発見し笹井哨戒中の坂井小隊邀撃B-26爆撃機1機(機長:スピアーズ・ランフォード中尉)の共同撃墜、2機の発火報告6月1日ポートモレスビー攻撃で、同基地5千メートル上空で、米陸軍35戦闘飛行隊ベルP-39エアラコブラ戦闘機(ジェントリー・プランケット中尉機)の撃墜報告8月2日ブナ泊地上空米陸軍28爆撃飛行隊ボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機機長:ウィリアム・ワトソン中尉)の笹井中隊笹井中尉太田一飛曹、茂木三飛曹/高塚曹長松木二飛曹、本吉一飛/坂井一飛曹、西浦二飛曹、羽藤三飛曹)による協同撃墜1942年8月7日米軍ガダルカナル島上陸の報を受け、上陸支援の機動部隊攻撃に向かうこととなった四空一式陸上攻撃機27護衛のため、台南空零戦18機(うち1機は引き込み脚の故障離陸直後引き返したため、戦闘参加17機)の第三中隊長として笹井ラバウルから出撃空母サラトガより発鑑した米海軍VF-5航空隊グラマンF4Fワイルドキャット戦闘機8機、空母エンタープライズより発艦したVF-6航空隊F4F戦闘機14機と交戦し台南空迎撃戦闘機22機中9機を撃墜、5機を撃破笹井中隊ラバウルへの帰途空母エンタープライズより発艦したゴードン・ファイヤボー中尉指揮F4F戦闘機6機編隊サンタイサベル島南端上空交戦。うち2機(ゴードン・ファイヤボー中尉機、ウィリアム・ウォーデン准尉機)を、二番機の太田一飛曹と協同撃墜台南空先任下士官であった坂井三郎によれば、同戦闘ダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機旋回機銃斉射受けて重傷負い治療のため内地帰還する際に、笹井から「貴様別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ咆哮する虎の姿が浮き彫りにされたベルトバックルを引きちぎり、「これはな、俺の親父がこの戦争始まった時、わざわざあつらえて俺たち3人の兄弟くれたんだ。虎は千里行って千里帰る、という縁起だ。だから貴様も、千里内地へいって、治してからもういっぺん帰ってこい。いいか、待ってるぞ。」と言って見送られたという。また、がっかりするだろうからという理由笹井戦死半年間、坂井知らされなかったが、自分がついていたらきっと殺さなかったのにと地団太踏む思いがしたという。坂井が軍で禁止されていた麻薬混ぜたカナカタバコを吸い、他の下士官たちにもそれを配っていたところを笹井見つかった時は、「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片入っているんだぞ」と注意受け、坂井注意聞かないと、笹井タバコいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコ捨てろ」と問題収拾したこともあったという。 8月9日再度ガダルカナル出撃11日ニューギニア島東端ミルン湾ラビ初出撃ラビ飛行場上空が、厚い覆われていたため、陸攻隊は引き返したが、笹井は自らの判断で、6機(笹井中尉米川二飛曹、羽藤三飛曹/太田一飛曹、松木二飛曹、遠藤三飛曹)を率いての下の飛行場突入下で待ち受けていた豪空軍7576航空隊P-40キティホーク22機と、低空での激し格闘戦の末、うち4機を撃墜し笹井中隊全機ラバウル帰還8月14日内地両親宛てた最後の手紙笹井は、「私の撃墜も今54機、今月か来月半ばまでにはリヒトホーヘン追い抜けるつもりでおります。私の悪運に関しては、絶対で百何回かの空戦被弾はたった2回というのを見ても、私には敵弾は近づかないものと信じています」と書いている。 8月7日以降台南空は、ラバウルガダルカナル間の往復2千キロ以上、零戦の狭い操縦席往復7-8時間過酷な飛行を伴う戦闘余儀なくされ、一方で米海兵隊戦闘機隊が8月20日ガダルカナル飛行場進出。同島上空制空権確保され戦況大きく変化していた。 8月21日笹井中隊6機(笹井中尉米川二飛曹、羽藤三飛曹/高塚曹長松木二飛曹、吉村一飛)は、ガダルカナル飛行場北西サボ島南岸、高度4千メートル上空で、前日、同飛行場進出したばかりで、上空哨戒中の米海兵隊VF-223航空隊F4F戦闘機4機と交戦ジョン・スミス少佐(後の19撃墜エース)以下4機にとっては初の実戦であった笹井中隊6機による高度差150メートル優位からの一撃グラマンF4F全4機が被弾。しかし4機とも直ちガダルカナル飛行場方向離脱したため、ラバウルまでの帰り燃料考慮し追撃はせず、スミス少佐含めた4機は大破した2機も含めて飛行場帰還し人的損害はなかった。笹井中隊無傷ラバウル帰還する8月23日25日ガダルカナル出撃。同島上空達するも、共に会敵せず。

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ラバウル方面

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西沢広義」の記事における「ラバウル方面」の解説

1941年昭和16年10月1日千歳海軍航空隊配属日米開戦備えて訓練を受ける。サイパンルオット移動し1942年昭和17年2月トラック島からラバウル進出2月3日夜、新月という視界が悪い中、九六式艦上戦闘機双発飛行艇迎撃初めての撃墜報告する。しかし、豪空軍記録によれば、この PBY カタリナ飛行艇被弾しながらも基地帰投している。 2月10日第四航空隊配属戦闘重ねて単独撃墜7機、協同撃墜5機を報告している。1942年4月1日台南海軍航空隊台南空)に配属。第25航空戦隊が新編され、四空戦闘機隊の人員機材台南空吸収された。1942年5月1日モレスビー攻撃戦闘機一機撃墜報告7日戦闘機二機撃墜報告その後戦闘重ねる。5月27日モレスビー攻撃戦闘機一機撃墜報告戦後坂井三郎は、当時太田敏夫西沢広義とともに台南空三羽烏呼ばれ、この時に3人で中隊から離脱し無断ポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人で三回連続編隊宙返り行って他から遅れて帰還したという話を紹介している。しかし、戦闘行動調書によれば坂井主張する5月27日はモレスビー上空交戦後、1130分に全機ラエ帰着しており、坂井他の著作主張した6月25日には太田出撃ていないその他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない。1942年8月7日西沢ガダルカナル島攻撃参加西澤撃墜6機を報告。同戦闘負傷した坂井三郎内地帰還したため、西沢先任下士官となる。1942年10月21日西沢撃墜30機を全軍布告された。 1942年11月1日台南空第251海軍航空隊改称部隊損耗大きく再建のために豊橋帰還生還した搭乗者西沢含め十数名だった。1943年昭和18年5月10日ラバウル再進出西沢鴛淵孝中尉戦闘教育任せられる6月からルッセル島周辺作戦従事するも、6月末に連合軍レンドバ島上陸したため、251空ラバウルブイン基地から出撃して消耗していった。8月1日レンドバ島上空二度にわたる空戦で八機を共同撃墜報告また、西沢小隊長とする4機はF4Uコルセア4機と交戦西沢単独で3機撃墜部下が1機撃墜報告している。ラバウル離任時に岡本晴年に「86撃墜」と語っている。 1943年9月1日253空転属同月航空艦隊司令長官草鹿任一より100撃墜記念感状と「武功抜群と書かれたのし紙巻かれ白鞘軍刀授与される10月内地帰還1943年11月1日、大分空に配属飛行学生教官務める。教え子には厳しかった自分武功自慢することはなかった。

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岩本徹三」の記事における「ラバウル方面」の解説

1943年3月岩本281空の開隊とともに配属となった1943年4月1日海軍飛行兵曹長分隊士5月に対アリューシャン方面最前線である幌筵島武蔵基地進出。幌時代には勤務の間に同僚後輩連れ立って遡上してきた大量に捕らえ酒宴開いたとのエピソードがある。 1943年11月岩本281空16名は一大航空戦展開されていたラバウル派遣され第二〇一航空隊編入ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害出さず7機を撃墜報告。隊全体で敵52機を撃墜する大戦果を報告した。また岩本先行し部下がそれにならって3号爆弾で敵14編隊一度撃墜報告したこともあった。当時海軍戦闘機搭乗員二直交代勤務に就くことが多かったが、岩本は直長として編隊指揮を執った。機数は稼動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40前後だった。日本海軍空中指揮階級依存したが、岩本搭乗士官(飛曹長准士官)として空中指揮担当した1943年12月第二〇四海軍航空隊異動ブーゲンビル島タロキナ飛行場への攻撃任務では、単機出撃して超低空侵入奇襲成功し20機以上の米軍機銃撃破壊報告飛行場手前急上昇して滑走路並んだ列線一撃切り返してもう一撃そのまま低空突っ走って帰ってきた。そして、現地陸軍からは「敵飛行場火の海になっている。」との電報入ってきた。このときの出撃は、先任曹長出撃拒絶してしまったため、その状況を見かねて岩本自らが志願した述懐している。 12月以降、敵戦爆連合ラバウル空襲猛烈で「爆撃機1週間のべ1,000平均ニミッツ太平洋戦記)」、「陸・海海兵隊連合国空軍によるラバウル総攻撃グレゴリー・ボイントン)」という空前規模数ヶ月間、圧倒的機数で連日行われた日本軍は約2030機の零戦粘り強く対抗しつづけた実際はこの少数であった日本軍兵力アメリカ軍過剰に見誤り日本軍は約1000をもってアメリカ軍対抗していると考えていた。このためアメリカ本国増援求め報告発信している。ラバウル航空隊69対0勝利記録フィルム日本ニュース映画ラバウル」「南海決戦場」はこの時期撮影であり、地上員からも撃墜50機以上を数えたことが目撃されている。また1月7日多数撃墜戦果翌日奏上され御嘉賞されたことが知られている。岩本活躍郷里益田にもニュース映画通して知られ岩本搭乗したゼロ戦プロペラ益田小学校展示された。この頃ニュース映画見て益田岩本さん」を知ったある女学生が、戦後岩本お見合い知り合い岩本夫人となった当時ラバウルは、マッカーサー南西太平洋方面軍フィリピンへの進路にあって陸海軍圧倒的な戦力重点的に攻撃集中していた。岩本1943年12月4日ラバウル邀撃後、多く日本軍戦闘機撃墜したアメリカ軍機の基地帰還時を狙って待ち伏せ攻撃奇襲撃墜し、「送り狼」と呼ばれる戦法をとった。このように攻撃終えて帰還中の敵を攻撃する「敵攻撃直接的阻止」を目的置かない送り狼戦法について、「我々の今やっている戦法長い間実戦経験から体得されたもので、今来たばかり部隊にはとうてい理解できないところがある」と岩本自身述べている。1943年12月15日感状授与1944年昭和19年1月204空トラック島撤退に伴い機材人材引き継いだ二五三空異動となる。1943年末から1944年2月まで、岩本曹長搭乗した253航空隊102号機は零戦二二型で、撃墜数を表すマーク6070個も描かれており、遠目からは機体後部ピンク色見えた。もちろん、この機体上空でも敵の目を惹いたが、岩本敵機ことごとく返り討ちにしていった岩本ラバウル航空隊では、敵爆撃機編隊に対して1000〜2000m上空から敵の進行方向正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3〜5000m程度になった時に背面飛行入り射撃角度調整しながら急降下し敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃直上から爆撃機操縦席狙って1〜2秒の間に発射し高速下方向離脱再度上昇して反復攻撃する攻撃法採用していた。岩本らは繰り返しこの戦法でB-24撃墜戦果報告していた。この戦法メリット敵編隊機銃の数が制限されること、自機の機速と敵の機動により照準がつけにくいことであり、デメリットは高度な飛行テクニック計算力射撃能力要求される岩本は「この攻撃方法は1秒で時間誤れば失敗する操作時期さえ良ければ十中八九成功する」が「若い搭乗員にはそんな難し攻撃法はとても無理である」と述べている。後に岩本大隅半島上空でこの攻撃法によりB-29一撃撃墜した報告している。この攻撃方法応用して岩本曹長小町定上飛曹、熊谷鉄太郎曹長らにより、三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃が行なわれた。背面機銃攻撃に入る代わりに爆弾投下して敵編隊から降下速度利用してその後方に抜け戦法である。戦後回想録および複数目撃証言でその詳細明らかにされた。三号弾は1942昭和17)年後半導入され当初飛行場襲撃使用されていた。1943年12月9日岩本らの小隊による試用攻撃で、帰途集結旋回中の編隊26機を一気撃墜報告その後機会があるごとに熟達し一撃艦爆14機、トラック基地B-24迎撃戦では余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。 三号爆弾について岩本自身は「(長年経験による)カン投弾したので、あれこれ口で説明するのはなかなか難しい」と最初投弾についての報告について回想している。トラック島253空電信加藤茂は「丁度、敵機真上をすぎたときである。電信員がかぶっているレシーバーから、なにやら訳の分からない英語の叫び声防空壕電信一杯響き渡った。あまりの近距離と、敵機電信機出力大きいせいであろう。と、その時叫び声泣き声のように変わる。明らかに絶望的な叫び声つんざいた。これこそおそらくは我が零戦隊の岩本曹長らが投じた3号爆弾敵編隊命中したものであろう。壕から出て敵機を見ると、数条の白煙吐いたB24がまさに夏島の山かげに消えて行くところであった。」と回想する僚機でもあった小町定は「三号爆弾を落とす時は、人によって、また場合によってやり方異なりますが、約千メートルの高度差をもって敵編隊と同航し、その前方出てちょうど自分の翼のつけ根後ろあたりに敵が見えた時、切り返して背面ダイブ垂直になって突っ込むんです。しかし大型機はなかなか、ガソリンを引くことはあってもその場落ちることは少なかったですね。岩本先輩とはラバウルトラックでは私は腕を競い合う仲にありました地上運動何をやってもできるし、空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷ひろげていました。」と語っている。 1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島防御固めるため二五三空ラバウルより撤収しトラック島移動岩本以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊はほとんど機材人員補充を受けることが出来ずテニアンの一航艦司令部からの三号爆弾要領指導派遣を「一名余裕もなし」と断るほど逼迫し状況だった。飛行可能機搭乗員の1/3となった二五三空1944年6月機材自力補充するべく岩本空輸要員4名を内地派遣帰還させた。ところが、内地到着後に始まったサイパン島の戦いにより、機材受領後に再びトラック島へ戻るための主要空路遮断されてしまったため、トラック復帰取り止めとなり、岩本はしばらく木更津空とどまったあと、1944年8月三三二空異動。この時期までに飛行時間は8,000時間超え離着陸回数 13,400 回を超えた

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ラバウル方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/15 01:59 UTC 版)

坂井三郎」の記事における「ラバウル方面」の解説

1942年4月1日台南空は第25航空戦隊に編入され、ラバウル方面に移動する4月16日台南空ニューブリテン島ラバウル進出17日ラバウル前進基地となるニューギニア島東部ラエ基地進出。この基地から連合国軍米豪軍)のポートモレスビー基地まで近距離であり、台南空は、ポートモレスビー攻撃連合軍ラエ基地爆撃邀撃従事するこの頃坂井遠方から油断した単独敵機発見し後ろ回って死角である胴体真下から隠れながら高度を上げて接近し優位な位置占めることに成功する運のいい巡り合わせがよくあり、隊内では坂井落ち穂拾い戦法笑い話になったという。 1942年昭和17年5月27日飛行機隊長中島正少佐指揮零戦18機によるモレスビー攻撃参加6時20ラエ発進し小規模な空戦をした後、同じ中隊西沢広義太田敏夫の3人でひそかに打ち合わせていた通り中隊離脱し無断ポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返り行った敵側はこれを天晴れ見物していたらしく攻撃されることは無かったが、後日敵側から賞賛の手紙が基地届いたため、上官笹井に「けしからん」と叱られた、と坂井語っている。坂井自伝として海外出版された『SAMURAI』では5月17日出来事としている。『SAMURAI』の共著者マーティン・ケイディン戦後当時ポートモレスビーにいたある米兵からそれを目撃したことを聞いた主張している。しかし、戦闘行動調書によれば5月17日1145分13機がラエ帰着、2機がサラモア帰着し5月27日攻撃山下政雄指揮零戦27機がラエから8時50分に発進してモレスビー上空交戦後、1130分に全機ラエ帰着しており、さらにいずれも坂井小隊長であり、3人は同じ中隊所属していなかった。坂井他の著作主張した6月25日には太田出撃ていないその他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない。 1942年6月9日来襲する敵爆撃機迎撃参加。後にアメリカ大統領となったリンドン・B・ジョンソン下院議員時代B-26マローダー爆撃機同乗してこの戦闘参加し撃墜されかけたと語っているが、ジョンソン搭乗機は、エンジントラブル引き返しており、議員の安全を優先させたためか、爆弾投下しておらず、戦闘には参加していないとの公式記録がある。

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ラバウル方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 18:00 UTC 版)

ろ号作戦」の記事における「ラバウル方面」の解説

方面空襲激化のため、ブーゲンビル島への輸送11月30日最後に打ち切られ、その北に位置するブカ島への増援連合軍の上陸予想されいながら翌年1月には増援実施しないこととした。この結果ブーゲンビル島日本軍守備隊である第十七軍は孤立し密林の中で疫病飢餓苦しみながら終戦まで戦い続けた11月25日連合軍タロキナ対す6回目輸送船団が入泊したが、日本航空隊はこれを発見することはできなかった。戦史叢書では「これはボーゲンビル島方面制空権日本側が喪失したことを示すものと解釈していだろう」と記している。 「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」も参照 日本海軍当初ギルバートマーシャル方面連合軍の反攻時期1943年末と予想していたが、ろ号作戦戦果から判断しその時期は相当に遅延するであろう考えていた。ところがろ号作戦終結直後11月19日、米機動部隊突如ギルバート諸島来襲翌日反復空襲をかけ、21日にはマキンタラワ両島攻略部隊上陸させた。決戦兵力考えられていた第一航空戦隊飛行機隊はろ号作戦によって大きな損害受けていたため、当初想定してたような機動部隊による邀撃作戦実施することができず、当面マーシャル方面第二十二航空戦隊の戦力のみで迎え撃つこととし他方面から航空兵力をマーシャル方面転用させる措置をとった。第一航空戦隊残余戦力である連合戦闘機隊もZ作戦部隊加えられ11月24日にはトラックからルオット進出タラワ増援作戦支援の準備整えた。しかし、翌25日にはマキンタラワ両島組織的な戦闘終結し両島失墜は確実となったため、結局逆上作戦実施されず、一航戦連合戦闘機隊も12月7日トラック帰還したまた、12月22日第一航空戦隊代わりに急遽トラック進出した第二航空戦隊当初マーシャル方面への投入予定していたが、進出時点ではギルバート諸島の戦いはすでに終了しておりまた、ギルバート諸島沖航空戦戦果報告から、連合軍マーシャル方面侵攻は当分ないと思われていたため、危機的状況となったラバウル方面へ投入されることとなり、戊号輸送支援のため飛鷹龍鳳戦闘機36機が12月27日カビエン進出した。さらに翌年1月21日には、消耗した第二十六航空戦隊と交代ラバウル防衛任務着いたしかしながらギルバート諸島沖航空戦で、相応打撃与えていたと思われていた米高速機部隊は、翌年2月にさらに増強された姿で中部太平洋出現し日本海軍予想反してマーシャル攻略取り掛かった

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