ラバウル方面
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1942年4月1日、台南空は新編の第25航空戦隊に編入され、笹井ら隊員は小牧丸でラバウルに移動する。笹井は、移動中に書いた手紙に「四月一日の異動で士官搭乗員、隊長、分隊長以下の全部が内地方面に帰ってしまい開戦以来の居残りは私一人で大きな顔をしております。然し始めから生死をともにした隊長や或は自分の手足としていた列機が全部居なくなり稍々淋しい気にならん事はないのですが」「大分実戦の経験も積んだし今度は思う存分やれると思います。」と書いている。 4月16日、台南空はニューブリテン島のラバウルに進出。17日、笹井中隊はラバウルの前進基地となるニューギニア島東部のラエ基地に進出。この基地から連合軍最前線のポートモレスビー基地まで零戦で片道45分の至近距離であり、5月から7月にかけて台南空は、ポートモレスビー攻撃、連合軍のラエ基地爆撃の邀撃を行った。4月18日、ラバウル基地上空で米陸軍第33爆撃飛行隊マーチンB-26マローダー爆撃機を単機で迎撃し、左エンジンを発火させ、同機種の撃墜を報告した。照合によると、ウィリアム・ガーネット大尉を機長とする機体で被弾により左エンジンが発火して撃墜されており、同機の撃墜は世界初であった。 5月25日、ラエ基地上空で米陸軍第3爆撃大隊のノースアメリカンB-25ミッチェル爆撃機5機の協同撃墜を報告。5月28日、米陸軍第33爆撃飛行隊のB-26爆撃機6機編隊をラエ基地上空で発見し、笹井は哨戒中の坂井小隊と邀撃。B-26爆撃機1機(機長:スピアーズ・ランフォード中尉)の共同撃墜、2機の発火を報告。6月1日、ポートモレスビー攻撃で、同基地5千メートル上空で、米陸軍第35戦闘飛行隊のベルP-39エアラコブラ戦闘機(ジェントリー・プランケット中尉機)の撃墜を報告。8月2日、ブナ泊地上空で米陸軍第28爆撃飛行隊ボーイングB-17フライングフォートレス爆撃機(機長:ウィリアム・ワトソン中尉)の笹井中隊(笹井中尉、太田一飛曹、茂木三飛曹/高塚飛曹長、松木二飛曹、本吉一飛/坂井一飛曹、西浦二飛曹、羽藤三飛曹)による協同撃墜。 1942年8月7日、米軍ガダルカナル島上陸の報を受け、上陸支援の米機動部隊の攻撃に向かうこととなった四空の一式陸上攻撃機27機護衛のため、台南空零戦18機(うち1機は引き込み脚の故障で離陸直後に引き返したため、戦闘参加は17機)の第三中隊長として笹井はラバウルから出撃。空母サラトガより発鑑した米海軍VF-5航空隊のグラマンF4Fワイルドキャット戦闘機8機、空母エンタープライズより発艦したVF-6航空隊のF4F戦闘機14機と交戦し、台南空は迎撃戦闘機22機中9機を撃墜、5機を撃破。笹井中隊はラバウルへの帰途、空母エンタープライズより発艦したゴードン・ファイヤボー中尉指揮のF4F戦闘機6機編隊とサンタイサベル島南端上空で交戦。うち2機(ゴードン・ファイヤボー中尉機、ウィリアム・ウォーデン准尉機)を、二番機の太田一飛曹と協同で撃墜。 台南空の先任下士官であった坂井三郎によれば、同戦闘でダグラスSBDドーントレス急降下爆撃機の旋回機銃斉射を受けて重傷を負い、治療のため内地に帰還する際に、笹井から「貴様と別れるのは、貴様よりもつらいぞ」と言われ、咆哮する虎の姿が浮き彫りにされたベルトバックルを引きちぎり、「これはな、俺の親父がこの戦争が始まった時、わざわざあつらえて俺たち3人の兄弟にくれたんだ。虎は千里を行って千里を帰る、という縁起だ。だから貴様も、千里の内地へいって、治してからもういっぺん帰ってこい。いいか、待ってるぞ。」と言って見送られたという。また、がっかりするだろうからという理由で笹井の戦死は半年間、坂井に知らされなかったが、自分がついていたらきっと殺さなかったのにと地団太踏む思いがしたという。坂井が軍で禁止されていた麻薬を混ぜたカナカタバコを吸い、他の下士官たちにもそれを配っていたところを笹井に見つかった時は、「それはカナカじゃないか。それを吸ってはいけないことぐらい知っているだろう。それには阿片が入っているんだぞ」と注意受け、坂井が注意を聞かないと、笹井はタバコをいっぱい詰めた箱を持ってきて、「みんなで分けろ。あんなくだらんタバコは捨てろ」と問題を収拾したこともあったという。 8月9日、再度ガダルカナルに出撃。11日、ニューギニア島東端のミルン湾、ラビに初出撃。ラビ飛行場上空が、厚い雲に覆われていたため、陸攻隊は引き返したが、笹井は自らの判断で、6機(笹井中尉、米川二飛曹、羽藤三飛曹/太田一飛曹、松木二飛曹、遠藤三飛曹)を率いて、雲の下の飛行場に突入。雲下で待ち受けていた豪空軍第75、76航空隊のP-40キティホーク、22機と、低空での激しい格闘戦の末、うち4機を撃墜し、笹井中隊は全機ラバウルへ帰還。 8月14日、内地の両親に宛てた最後の手紙に笹井は、「私の撃墜も今54機、今月か来月半ばまでにはリヒトホーヘンを追い抜けるつもりでおります。私の悪運に関しては、絶対で百何回かの空戦で被弾はたった2回というのを見ても、私には敵弾は近づかないものと信じています」と書いている。 8月7日以降、台南空は、ラバウル、ガダルカナル間の往復2千キロ以上、零戦の狭い操縦席で往復7-8時間の過酷な飛行を伴う戦闘を余儀なくされ、一方で米海兵隊戦闘機隊が8月20日にガダルカナル飛行場に進出。同島上空の制空権を確保され、戦況は大きく変化していた。 8月21日、笹井中隊6機(笹井中尉、米川二飛曹、羽藤三飛曹/高塚飛曹長、松木二飛曹、吉村一飛)は、ガダルカナル飛行場北西のサボ島南岸、高度4千メートル上空で、前日、同飛行場に進出したばかりで、上空哨戒中の米海兵隊VF-223航空隊のF4F戦闘機4機と交戦。ジョン・スミス少佐(後の19機撃墜のエース)以下4機にとっては初の実戦であった、笹井中隊6機による高度差150メートル優位からの一撃でグラマンF4F全4機が被弾。しかし4機とも直ちにガダルカナル飛行場の方向へ離脱したため、ラバウルまでの帰りの燃料を考慮し追撃はせず、スミス少佐を含めた4機は大破した2機も含めて飛行場に帰還し、人的損害はなかった。笹井中隊は無傷でラバウルに帰還する。8月23日、25日もガダルカナルへ出撃。同島上空に達するも、共に会敵せず。
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ラバウル方面
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1941年(昭和16年)10月1日千歳海軍航空隊に配属。日米開戦に備えて訓練を受ける。サイパン、ルオットと移動し、1942年(昭和17年)2月、トラック島からラバウルに進出。2月3日夜、新月という視界が悪い中、九六式艦上戦闘機で双発飛行艇を迎撃、初めての撃墜を報告する。しかし、豪空軍の記録によれば、この PBY カタリナ飛行艇は被弾しながらも基地に帰投している。 2月10日、第四航空隊に配属。戦闘を重ねて単独撃墜7機、協同撃墜5機を報告している。1942年4月1日、台南海軍航空隊(台南空)に配属。第25航空戦隊が新編され、四空の戦闘機隊の人員、機材が台南空に吸収された。1942年5月1日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。7日、戦闘機二機撃墜を報告。その後も戦闘を重ねる。5月27日、モレスビー攻撃で戦闘機一機撃墜を報告。戦後、坂井三郎は、当時太田敏夫と西沢広義とともに台南空の三羽烏と呼ばれ、この時に3人で中隊から離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて3人で三回連続編隊宙返りを行って他から遅れて帰還したという話を紹介している。しかし、戦闘行動調書によれば、坂井の主張する5月27日はモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない。1942年8月7日、西沢はガダルカナル島攻撃に参加。西澤は撃墜6機を報告。同戦闘で負傷した坂井三郎が内地に帰還したため、西沢が先任下士官となる。1942年10月21日、西沢は撃墜30機を全軍布告された。 1942年11月1日、台南空は第251海軍航空隊と改称。部隊損耗が大きく再建のために豊橋に帰還。生還した搭乗者は西沢を含め十数名だった。1943年(昭和18年)5月10日、ラバウルに再進出。西沢は鴛淵孝中尉の戦闘教育を任せられる。6月からルッセル島周辺の作戦に従事するも、6月末に連合軍はレンドバ島に上陸したため、251空はラバウル、ブインの基地から出撃して消耗していった。8月1日、レンドバ島上空の二度にわたる空戦で八機を共同撃墜を報告。また、西沢を小隊長とする4機はF4Uコルセア4機と交戦、西沢単独で3機撃墜、部下が1機撃墜を報告している。ラバウル離任時に岡本晴年に「86機撃墜」と語っている。 1943年9月1日、253空に転属。同月、航空艦隊司令長官草鹿任一より100機撃墜記念の感状と「武功抜群」と書かれたのし紙が巻かれた白鞘の軍刀を授与される。10月、内地帰還。 1943年11月1日、大分空に配属。飛行学生教官を務める。教え子には厳しかったが自分の武功を自慢することはなかった。
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ラバウル方面
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1943年3月、岩本は281空の開隊とともに配属となった。1943年4月1日海軍飛行兵曹長、分隊士。5月に対アリューシャン方面の最前線である幌筵島武蔵基地に進出。幌莚時代には勤務の間に同僚後輩を連れ立って、遡上してきた鮭を大量に捕らえ酒宴を開いたとのエピソードがある。 1943年11月、岩本ら281空の16名は一大航空戦が展開されていたラバウルに派遣され、第二〇一航空隊に編入。ラバウル到着から一週間後に爆撃を受け迎撃のため出撃した岩本は同じ中隊9名に損害を出さず7機を撃墜報告。隊全体で敵52機を撃墜する大戦果を報告した。また岩本が先行し部下がそれにならって3号爆弾で敵14機編隊を一度に撃墜と報告したこともあった。当時の海軍戦闘機隊搭乗員は二直交代勤務に就くことが多かったが、岩本は直長として編隊指揮を執った。機数は稼動機数の関係で上下したが、概ね20機弱から40機前後だった。日本海軍の空中指揮は階級に依存したが、岩本は搭乗士官(飛曹長=准士官)として空中指揮を担当した。 1943年12月第二〇四海軍航空隊へ異動。ブーゲンビル島のタロキナ飛行場への攻撃任務では、単機で出撃して超低空侵入で奇襲に成功し、20機以上の米軍機を銃撃で破壊と報告。飛行場手前で急上昇して、滑走路に並んだ列線に一撃、切り返してもう一撃、そのまま低空を突っ走って帰ってきた。そして、現地の陸軍からは「敵飛行場は火の海になっている。」との電報が入ってきた。このときの出撃は、先任飛曹長が出撃を拒絶してしまったため、その状況を見かねて岩本自らが志願したと述懐している。 12月以降、敵戦爆連合のラバウル空襲は猛烈で「爆撃機を1週間のべ1,000機平均(ニミッツの太平洋戦記)」、「陸・海・海兵隊と連合国空軍によるラバウル総攻撃(グレゴリー・ボイントン)」という空前の規模で数ヶ月間、圧倒的機数で連日行われた。日本軍は約20〜30機の零戦で粘り強く対抗しつづけた。実際はこの少数であった日本軍の兵力をアメリカ軍は過剰に見誤り、日本軍は約1000機をもってアメリカ軍に対抗していると考えていた。このためアメリカ本国に増援を求める報告を発信している。ラバウル航空隊69対0勝利の記録フィルム、日本ニュース映画「ラバウル」「南海決戦場」はこの時期の撮影であり、地上員からも撃墜50機以上を数えたことが目撃されている。また1月7日の多数機撃墜戦果は翌日奏上され御嘉賞されたことが知られている。岩本の活躍は郷里の益田にもニュース映画を通して知られ、岩本が搭乗したゼロ戦のプロペラが益田小学校に展示された。この頃、ニュース映画を見て「益田の岩本さん」を知ったある女学生が、戦後岩本とお見合いで知り合い、岩本夫人となった。 当時のラバウルは、マッカーサーの南西太平洋方面軍のフィリピンへの進路にあって米陸海軍が圧倒的な戦力で重点的に攻撃を集中していた。岩本は1943年12月4日ラバウルで邀撃後、多くの日本軍戦闘機を撃墜したアメリカ軍機の基地帰還時を狙って待ち伏せ攻撃で奇襲撃墜し、「送り狼」と呼ばれる戦法をとった。このように、攻撃を終えて帰還中の敵を攻撃する「敵攻撃の直接的阻止」を目的に置かない「送り狼」戦法について、「我々の今やっている戦法は長い間の実戦の経験から体得されたもので、今来たばかりの部隊にはとうてい理解できないところがある」と岩本自身も述べている。1943年12月15日感状授与。 1944年(昭和19年)1月、204空のトラック島撤退に伴い、機材人材を引き継いだ二五三空に異動となる。1943年末から1944年2月まで、岩本飛曹長の搭乗した253航空隊の102号機は零戦二二型で、撃墜数を表す桜のマークが60〜70個も描かれており、遠目からは機体後部がピンク色に見えた。もちろん、この機体は上空でも敵の目を惹いたが、岩本は敵機をことごとく返り討ちにしていった。 岩本らラバウル航空隊では、敵爆撃機の編隊に対して1000〜2000m上空から敵の進行方向と正対する様に飛行し、緩降下して敵編隊長機との直線距離が3〜5000m程度になった時に背面飛行に入り射撃角度を調整しながら急降下し、敵機との距離が150m以内に近づいた時に20mm機関砲と7.7mm機銃を直上から爆撃機の操縦席を狙って1〜2秒の間に発射し高速で下方向に離脱、再度上昇して反復攻撃する攻撃法を採用していた。岩本らは繰り返しこの戦法でB-24撃墜の戦果を報告していた。この戦法のメリットは敵編隊の機銃の数が制限されること、自機の機速と敵の機動により照準がつけにくいことであり、デメリットは高度な飛行テクニックと計算力、射撃能力が要求される。岩本は「この攻撃方法は1秒でも時間を誤れば失敗するが操作時期さえ良ければ十中八九成功する」が「若い搭乗員にはそんな難しい攻撃法はとても無理である」と述べている。後に岩本は大隅半島上空でこの攻撃法によりB-29を一撃で撃墜したと報告している。この攻撃方法を応用して、岩本飛曹長、小町定上飛曹、熊谷鉄太郎飛曹長らにより、三号爆弾(三号特爆)による対編隊爆撃が行なわれた。背面で機銃攻撃に入る代わりに爆弾を投下して、敵編隊から降下速度を利用してその後方に抜ける戦法である。戦後の回想録および複数の目撃証言でその詳細が明らかにされた。三号弾は1942(昭和17)年後半に導入され、当初は飛行場襲撃に使用されていた。1943年12月9日の岩本らの小隊による試用攻撃で、帰途集結旋回中の編隊26機を一気に撃墜を報告、その後機会があるごとに熟達し、一撃で艦爆14機、トラック基地B-24迎撃戦では余裕のある接敵さえ適えばほぼ確実に命中できる域にまで達したという。 三号爆弾について岩本自身は「(長年の経験による)カンで投弾したので、あれこれ口で説明するのはなかなか難しい」と最初の投弾についての報告について回想している。トラック島253空電信員加藤茂は「丁度、敵機が真上をすぎたときである。電信員がかぶっているレシーバーから、なにやら訳の分からない英語の叫び声が防空壕電信室一杯に響き渡った。あまりの近距離と、敵機の電信機の出力が大きいせいであろう。と、その時叫び声が泣き声のように変わる。明らかに絶望的な叫び声がつんざいた。これこそおそらくは我が零戦隊の岩本飛曹長らが投じた3号爆弾が敵編隊に命中したものであろう。壕から出て敵機を見ると、数条の白煙を吐いたB24がまさに夏島の山かげに消えて行くところであった。」と回想する。僚機でもあった小町定は「三号爆弾を落とす時は、人によって、また場合によってやり方は異なりますが、約千メートルの高度差をもって敵編隊と同航し、その前方に出てちょうど自分の翼のつけ根の後ろあたりに敵が見えた時、切り返して背面ダイブで垂直になって突っ込むんです。しかし大型機はなかなか、ガソリンを引くことはあってもその場で落ちることは少なかったですね。岩本先輩とはラバウル、トラックでは私は腕を競い合う仲にありました。地上の運動は何をやってもできるし、空戦の腕も達者でしたが、口も達者で、いつも大風呂敷をひろげていました。」と語っている。 1944年2月、米機動艦隊により大損害を受けたトラック島の防御を固めるため二五三空はラバウルより撤収しトラック島に移動。岩本も以後トラック島にて防空戦に従事した。ところがそれ以来部隊はほとんど機材も人員も補充を受けることが出来ず、テニアンの一航艦司令部からの三号爆弾の要領指導の派遣を「一名の余裕もなし」と断るほど逼迫した状況だった。飛行可能機が搭乗員の1/3となった二五三空は1944年6月、機材を自力で補充するべく岩本ら空輸要員4名を内地に派遣帰還させた。ところが、内地到着後に始まったサイパン島の戦いにより、機材受領後に再びトラック島へ戻るための主要空路を遮断されてしまったため、トラック復帰は取り止めとなり、岩本はしばらく木更津空にとどまったあと、1944年8月、三三二空に異動。この時期までに飛行時間は8,000時間を超え、離着陸回数 13,400 回を超えた。
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ラバウル方面
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1942年4月1日、台南空は第25航空戦隊に編入され、ラバウル方面に移動する。4月16日、台南空はニューブリテン島のラバウルに進出。17日、ラバウルの前進基地となるニューギニア島東部のラエ基地に進出。この基地から連合国軍(米豪軍)のポートモレスビー基地まで近距離であり、台南空は、ポートモレスビー攻撃、連合軍のラエ基地爆撃の邀撃に従事する。この頃、坂井は遠方から油断した単独の敵機を発見し、後ろに回って死角である胴体の真下から隠れながら高度を上げて接近し、優位な位置を占めることに成功する運のいい巡り合わせがよくあり、隊内では坂井の落ち穂拾い戦法と笑い話になったという。 1942年(昭和17年)5月27日、飛行機隊長中島正少佐指揮の零戦18機によるモレスビー攻撃に参加。6時20分ラエを発進し、小規模な空戦をした後、同じ中隊の西沢広義と太田敏夫の3人でひそかに打ち合わせていた通り、中隊を離脱し、無断でポートモレスビーのセブンマイル飛行場上空にて三回連続編隊宙返りを行った。敵側はこれを天晴れと見物していたらしく攻撃されることは無かったが、後日敵側から賞賛の手紙が基地に届いたため、上官の笹井に「けしからん」と叱られた、と坂井は語っている。坂井の自伝として海外で出版された『SAMURAI』では5月17日の出来事としている。『SAMURAI』の共著者のマーティン・ケイディンは戦後に当時ポートモレスビーにいたある米兵からそれを目撃したことを聞いたと主張している。しかし、戦闘行動調書によれば、5月17日は11時45分に13機がラエに帰着、2機がサラモアに帰着し、5月27日の攻撃は山下政雄指揮の零戦27機がラエから8時50分に発進してモレスビー上空で交戦後、11時30分に全機がラエに帰着しており、さらにいずれも坂井は小隊長であり、3人は同じ中隊に所属していなかった。坂井が他の著作で主張した6月25日には太田が出撃していない。その他の日も合わせて日本でも連合軍でも坂井たちが別行動をとった記録はない。 1942年6月9日、来襲する敵爆撃機の迎撃に参加。後にアメリカ大統領となったリンドン・B・ジョンソンが下院議員時代にB-26マローダー爆撃機に同乗してこの戦闘に参加し、撃墜されかけたと語っているが、ジョンソンの搭乗機は、エンジントラブルで引き返しており、議員の安全を優先させたためか、爆弾も投下しておらず、戦闘には参加していないとの公式記録がある。
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ラバウル方面
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同方面の空襲激化のため、ブーゲンビル島への輸送は11月30日を最後に打ち切られ、その北に位置するブカ島への増援も連合軍の上陸が予想されていながら翌年1月には増援を実施しないこととした。この結果ブーゲンビル島の日本軍守備隊である第十七軍は孤立し、密林の中で疫病や飢餓に苦しみながら終戦まで戦い続けた。 11月25日、連合軍のタロキナに対する6回目の輸送船団が入泊したが、日本の航空隊はこれを発見することはできなかった。戦史叢書では「これはボーゲンビル島方面の制空権を日本側が喪失したことを示すものと解釈してよいだろう」と記している。 「ギルバート・マーシャル諸島の戦い」も参照 日本海軍は当初、ギルバート、マーシャル方面の連合軍の反攻時期を1943年末と予想していたが、ろ号作戦の戦果から判断し、その時期は相当に遅延するであろうと考えていた。ところがろ号作戦終結直後の11月19日、米機動部隊は突如ギルバート諸島に来襲、翌日も反復空襲をかけ、21日にはマキン、タラワ両島に攻略部隊を上陸させた。決戦兵力と考えられていた第一航空戦隊の飛行機隊はろ号作戦によって大きな損害を受けていたため、当初想定していたような機動部隊による邀撃作戦を実施することができず、当面マーシャル方面の第二十二航空戦隊の戦力のみで迎え撃つこととし、他方面から航空兵力をマーシャル方面へ転用させる措置をとった。第一航空戦隊の残余戦力である連合戦闘機隊もZ作戦部隊に加えられ、11月24日にはトラックからルオットへ進出、タラワ増援作戦支援の準備を整えた。しかし、翌25日にはマキン、タラワ両島の組織的な戦闘は終結し、両島の失墜は確実となったため、結局逆上陸作戦は実施されず、一航戦連合戦闘機隊も12月7日、トラックへ帰還した。また、12月22日に第一航空戦隊の代わりに急遽トラックへ進出した第二航空戦隊も当初マーシャル方面への投入を予定していたが、進出時点ではギルバート諸島の戦いはすでに終了しておりまた、ギルバート諸島沖航空戦の戦果報告から、連合軍のマーシャル方面の侵攻は当分ないと思われていたため、危機的状況となったラバウル方面へ投入されることとなり、戊号輸送支援のため飛鷹、龍鳳戦闘機隊36機が12月27日、カビエンに進出した。さらに翌年の1月21日には、消耗した第二十六航空戦隊と交代でラバウル防衛の任務に着いた。しかしながらギルバート諸島沖航空戦で、相応の打撃を与えていたと思われていた米高速機動部隊は、翌年2月にさらに増強された姿で中部太平洋に出現し、日本海軍の予想に反してマーシャル攻略に取り掛かった。
※この「ラバウル方面」の解説は、「ろ号作戦」の解説の一部です。
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