分隊
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分隊(ぶんたい、英: squad, section, division)は、軍隊編成上の戦術単位のひとつ。
陸軍と海軍では分隊の概念が異なり、陸軍においては下士官が指揮する単位であるのに対し、海軍においては士官が指揮する単位であって陸軍の分隊より規模が大きいことに注意を要する[1]。
分隊 (陸軍)
陸軍における分隊とは、アメリカ英語の squad(イギリス陸軍では section)の訳語として充てられたもので、小隊の下位となり、下士官(軍曹、曹長)たる分隊長によって指揮される小部隊をいうことを指す。
10名前後である場合が多いが、さらに細かく「班」「組」などを設けない場合には、5名前後でも分隊として扱う場合がある。
近代以降の歩兵分隊の場合、小銃を主力として、1丁程度の分隊支援火器(軽機関銃、マークスマンライフル、軽迫撃砲など)を装備する場合が多い。
迫撃砲や榴弾砲に於いては、砲一門の人員(射撃要員と車両の運転手)で分隊となる。
陸上自衛隊の普通科連隊普通科中隊の分隊は規模として班よりも人員数は若干少なく小規模である(約7 - 8名、班編制は10名)。
分隊 (憲兵)
大日本帝国陸軍の憲兵では、警察署に相当する部隊として憲兵分隊を運用していた。憲兵隊の下位、憲兵分遣隊の上位となっていた。自衛隊の警務隊においては、分隊という編成は行われていない。
分隊 (海軍)
大日本帝国海軍における分隊長は、所轄長(原則として海軍大佐。軍艦の艦長、駆逐隊の司令など)に直属し、分隊に属する下士官兵を管理した[1]。例えば、ある時期の戦艦「長門」の下士官兵(1300名程度)は21個の分隊に分かれており、150名の下士官兵が属する分隊もあった[1]。
太平洋戦争より前の平時における海軍兵科将校のキャリアは、海軍兵学校を卒業し、海軍少尉候補生・海軍少尉・海軍中尉として分隊長を補佐する分隊士を務め(辞令「補 軍艦赤城 乗組」)、海軍大尉に進級して分隊長を務め(辞令「補 軍艦扶桑 分隊長」)、さらに[注釈 1]科長(例:砲術長)と分隊長を兼ねる(辞令「補 軍艦古鷹 砲術長 兼 分隊長」)、といった流れであった[1]。
海上自衛隊における分隊長の位置づけは、帝国海軍における分隊長のそれと概ね同じである。
分隊 (警察)
日本の警察の場合、機動隊の規模・編成は各都道府県警によって大きく異なっているが、例えば警察庁の調整のもとで広域運用される管区機動隊の分隊は、巡査部長を分隊長、巡査(巡査長を含む)3 - 4名を分隊員として編成される[2]。一方、警視庁機動隊の場合は、巡査部長を分隊長とするのは同様だが、分隊員の人数は6 - 7名とされている[3]。
分隊 (消防)
日本の消防本部においては自治体により異なるが、概ね車両1台に搭乗する人員を分隊または小隊と呼ぶ(小隊と称する方が一般的で、その長は小隊長と称する)。消防組織ではこの分隊(または小隊)が最小編成単位となる。
分隊は分隊長(消防司令、消防司令補または消防士長)1名および隊員(消防司令補、消防士長、消防副士長または消防士)3 - 4名前後の合計4 - 5名で構成される。
救急隊では分隊長1名、隊員2名の合計3名が標準であり、はしご隊などでは分隊長1名、隊員1名の合計2名で構成される場合もある。
フィクションに登場する分隊
テレビドラマ
- 『コンバット!』
- 主人公は歩兵分隊と率いる隊長。
ゲーム
- 『戦場のヴァルキュリア』
- 追加シナリオとして、イーディ分隊が活躍する。
脚注
注釈
- ^ どの時点から(「海軍大尉に進級すると同時」「海軍少佐に進級した後」 など)科長と分隊長を兼ねるかは、軍艦などの規模や格付によって異なる。
出典
- ^ a b c d 雨倉 2007, pp. 62–65, 一人前の証「分隊長」
- ^ 福島県警察本部 (2012年2月6日). “福島県警察管区機動隊運営要綱の制定について(通達)”. 2019年5月19日閲覧。
- ^ 講談社ビーシー 2010, p. 86.
参考文献
- 雨倉孝之『帝国海軍士官入門』光人社〈光人社NF文庫〉、2007年。
- 講談社ビーシー 編『機動隊パーフェクトブック』講談社〈別冊ベストカー〉、2010年。ISBN 978-4063666137。
- 渡邉, 直「護衛艦の365日 (特集・護衛艦のすべて)」『世界の艦船』第636号、海人社、2005年1月、142-147頁、NAID 40006512964。
- 渡邉, 直「海上自衛隊護衛艦の日課 (特集・艦船勤務の今昔)」『世界の艦船』第703号、海人社、2009年3月、94-97頁、NAID 40016438615。
関連項目
- 軍隊の編制
- アメリカ陸軍の分隊編制
- 軍隊の階級
- 分隊支援火器
- 救世軍 - 小規模の伝道所を「分隊」と称している。
分隊長
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:23 UTC 版)
1941年12月、太平洋戦争劈頭の真珠湾奇襲作戦に参加。真珠湾爆撃の写真を日本へ運ぶ。機動部隊本隊より先に本土に帰ってこれたので、12月21日から25日まで休暇をもらって、鎌倉の妻の実家で一家挙げての歓待を受けて凱旋の幸せを存分に味わった。年が明けて1942年となってからは呉で「阿武隈」を迎えたが、汽車で後を追ってきた篤子と1か月半遅れの新婚旅行を楽しんだ。1942年1月に美濃部を乗せて出航した「阿武隈」はビスマルク諸島攻略作戦の支援を行ったが、作戦従軍中の1月11日に同姓の戦死者と間違われ実家に美濃部の戦死公報が届けられて母親や篤子を驚かせている。1942年4月に一旦「阿武隈」が内地に帰還したため、美濃部は篤子を伴って実家に帰省して母親を安心させている。息つく暇もなくジャワ攻略作戦、インド洋作戦に参加、セイロン沖海戦では第一航空艦隊が英空母「ハーミス」を撃沈した時に、美濃部は九四式水上偵察機で10時間飛行し、沈没する「ハーミス」の写真を撮影している。美濃部によれば、第一航空艦隊を去る際に艦上高速偵察機10機による側方警戒を進言したが無視されたという。しかし、当時供給可能な二式艦上偵察機(艦上高速偵察機、艦上攻撃機の試作機を改修したもの)は2機しか存在せず、また、これによる側面警戒も最初の作戦打ち合わせの段階ですでに計画されていた。 1942年6月、AL作戦の日本軍によるアッツ島の占領作戦に参加。美濃部は陸軍部隊によるアッツ島上陸に先立った偵察任務を命じられたが、偵察飛行中にアメリカ軍兵士の姿や軍事施設を発見できなかったため、美濃部は水上機から降りると、数名の陸軍兵士とともにチャチャコブ港 (英語版)に上陸した。当時のアッツ島にはアメリカ軍兵士は1名もおらず、気象観測員チャールズ・フォスター・ジョーンズと教師をしていた妻のエタ・ジョーンズのアメリカ人2名と、アレウト族の原住民42名が居住していたが、チャールズは日本軍の上陸を確認すると、慌てて自宅にある無線機で「Japs coming Japs coming」と打電したのを阿武隈が傍受している。美濃部によれば、兵士を連れてアンテナが立っているチャールズの家を訪ねると、出てきたエタが命乞いをしてきたので、美濃部は笑顔で心配は要らないと声をかけて、日本軍の情報を発信できないよう無線機の使用だけを禁じてジョーンズ邸を後にした。任務を終えた美濃部は、この後上陸した陸軍部隊が、罪のないジョーンズ夫妻やアレウト族の住民をどう扱うつもりなのか嫌な思いを抱えながらアッツ島を離れたという。 しかし、妻のエタの証言では、上陸してきた日本兵は小銃を撃ちながら前進し、アレウト族の住民数名が軽傷を負っている。やがてジョーンズ邸に近づくと、窓や壁に小銃を撃ち込んできたが、チャールズはそれに構わずアメリカ軍のダッチハーバー基地に日本軍上陸の打電を続けたのちに、日本兵がジョーンズ邸に達すると自分から家を出て投降している。その後日本兵はジョーンズ邸に踏み入り、指揮官が銃剣をエマに突き付けながら、「ここには何人いる?」と質問し、エマは「2人」と答えている。日本兵はこの日は一旦引き上げたが、翌早朝に再度ジョーンズ邸を訪れるとチャールズを連行し、その後チャールズは日本軍の尋問を受けたが、尋問の途中で死亡している。エタは日本軍からチャールズが尋問中に手首を切って自殺したと説明を受けたが、日本軍はチャールズをスパイと疑っており、拷問の上に殺害した可能性も指摘されている。エタも数日後に日本軍に連行され、アレウト族の住民と一緒にそのまま捕虜として横浜に移動させられ、終戦まで日本本土の捕虜収容所で拘束されることとなったが、アレウト族の住民は栄養失調や病気などにより16人が死亡している。 1942年7月20日、小松島空分隊長を拝命。基礎課程を終えた海軍飛行予科練習生に水上機の実戦運用についての訓練を施している。美濃部はこの小松島で結婚後殆ど一緒に生活する機会がなかった妻篤子と、ようやく落ち着いた家庭生活を営むことができた。この頃に連合艦隊司令長官山本五十六大将から、海軍士官に広く斬新な戦法や兵器についての意見募集があり、美濃部は、8機の彗星を搭載可能な大型潜水艦を50隻建造、1年間の訓練ののちに、アメリカ本土東海岸沖まで進出し、合計400機の艦載機でアメリカ本土の航空機生産工場を粉砕して、アメリカの航空機生産を中断させて戦局の打開をはかるべきとする斬新な意見を提出したが、採用されることはなかった。しかし、この美濃部の意見は図らずも、極秘裏に進められていた伊四百型潜水艦によるアメリカ本土やパナマ運河への攻撃計画と同じような内容であった。
※この「分隊長」の解説は、「美濃部正」の解説の一部です。
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