AL作戦
AL作戦
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1942年(昭和17年)5月3日、第1002号艦(隼鷹)は竣工。隼鷹艤装員事務所を撤去する。特設航空母艦隼鷹として呉鎮守府所管。この時点では特設航空母艦(特設艦船)であるため、まだ艦首の菊御紋章がついていなかった。主要初代幹部は、石井藝江大佐(隼鷹艦長)、副長羽田次郎中佐、飛行長崎長嘉郎少佐、航海長鈴木荘少佐、砲術長吉野富大尉、通信長佐伯洋大尉、機関長村田利男中佐。 隼鷹は竣工と同日附で第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された。四航戦は軽空母2隻(龍驤、祥鳳)で編成されていたが、祥鳳は5月7日の珊瑚海海戦で沈没していた。隼鷹は内海西部で訓練に従事したが、艦・飛行機隊とも訓練期間が極めて短かった。5月19日、隼鷹は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦大和(連合艦隊旗艦)と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長(大和座乗)は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長(石井大佐)に怒っている。同日、隼鷹は基地航空隊用の零式艦上戦闘機12機を搭載した。 5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶、高雄)、第一水雷戦隊(旗艦〈阿武隈〉、第6駆逐隊〈響、暁、雷、電〉、第21駆逐隊〈若葉、初霜、子日、初春〉、第7駆逐隊〈潮、曙、漣〉)は北方部隊に編入された。隼鷹は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加する。5月22日、各隊(四戦隊、21駆)・(四航戦、6駆)は瀬戸内海を出撃後、下関海峡を通過し、訓練を実施しながら日本海を北上する。5月25日、大湊到着。翌日、第二機動部隊(四航戦、第四戦隊、第7駆逐隊、帝洋丸)は大湊から川内湾へ移動。ダッチハーバー(ウナラスカ島)に向かった。 6月3日2300よりダッチハーバーや同方面所在の小型艦艇に対し空襲を行う(第一次攻撃隊〔龍驤艦攻14・艦戦3、隼鷹艦爆15・艦戦13〕、第二次攻撃隊〔艦攻14、艦爆15、艦戦12、水上偵察機4〕)。だが天候不良に加え小数兵力のため大きな戦果をあげることが出来なかった(水偵1喪失、水偵1を回収後放棄)。 6月5日、ミッドウェー海戦で南雲機動部隊からは主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)が沈没した。並行して実施されていたミッドウェー海戦の敗北報告を受けた角田司令官は、ダッチハーバーへの第三次攻撃(艦攻9、艦爆11、艦戦11)を実施してからミッドウェー方面に向かう事を決定。天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった。龍驤所属の零戦が不時着し、アメリカ軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ)。同方面行動中、隼鷹は雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が隼鷹に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは高雄に撃墜されたという。また索敵行動中、軽空母の龍驤(四航戦旗艦)の航空燃料が不足したため、龍驤艦載機を隼鷹に着艦させて補給することになったという。 6月14日、攻略部隊に所属していた空母瑞鳳、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)等が北方部隊に合流した。隼鷹は駆逐艦から蒼龍の搭乗員を受け入れたという。また本土からも空母瑞鶴が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。17日附で北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)が発令した第二軍隊区分の主要兵力は、主隊(那智)、支援部隊(第一支援隊〈比叡、利根、筑摩〉、第二支援隊〈妙高、羽黒、木曾、多摩、阿武隈、駆逐隊1〉)、第二機動部隊(第一空襲部隊〈龍驤、隼鷹、高雄〉、第二空襲部隊〈瑞鶴、瑞鳳、摩耶〉)というものだった。作戦行動中、隼鷹は機関故障を起こす。6月24日、隼鷹は大湊に到着。29日、駆逐艦暁(第6駆逐隊)に護衛されて大湊を出発、下関海峡を通過し、7月3日に呉へ帰投した。同日、「隼鷹」は機動部隊に復帰した。後日、山本五十六連合艦隊司令長官は、第二機動部隊に感状を与えた。
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