AL作戦
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AL作戦 | |
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![]() 日本軍空襲後のダッチハーバー基地(1942年6月3日)。 | |
戦争:太平洋戦争 | |
年月日:1942年6月3日 - 6月7日 | |
場所:![]() | |
結果:日本軍の勝利 アッツ島とキスカ島を占領 | |
交戦勢力 | |
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指導者・指揮官 | |
細萱戊子郎中将 | ロバート・シオボルド少将 |
戦力 | |
航空母艦2隻 重巡洋艦3隻 軽巡洋艦3隻 駆逐艦11隻他 |
重巡洋艦2隻 軽巡洋艦3隻 駆逐艦12隻 海軍航空部隊 陸軍航空部隊 |
AL作戦(ALさくせん)は、第二次世界大戦中の1942年(昭和17年)6月に、アメリカ合衆国アラスカ準州アリューシャン列島西部要地の攻略及び占領、破壊を目的として行われた日本軍の作戦。日本軍はアメリカ軍のダッチハーバー基地に対して空襲を実施し、初めてアメリカの領土であるアリューシャン群島の島嶼を占領した。
計画
アラスカのアリューシャン列島は、太平洋戦争開戦時の連合艦隊作戦計画では占領または攻撃破壊すべき外郭要地として定められていたが、これは十分検討を経て決められたものではなかった。その目的は、アメリカの北方路の進行を阻止するもので、米ソ間の連絡を妨害し、シベリアに米航空部隊が進出するのを妨害しようとするものであった。日本本土の東方海面は幅広く開放されており、米空母の本土への奇襲を防止するには、莫大な哨戒兵力が必要であったが、海軍はこれに十分な兵力をさく余裕はなく一部を重点的に哨戒する他なかった。
その状況にこの正面の警戒を担当する北方部隊は不安を抱いており、特に米空母の機動が開始されてからは、一層その不安がつのっていた。そのため北方部隊はアリューシャン列島西部のキスカ島を攻略し、水上航空基地を同地に進めて飛行哨戒を行い、北方航路を利用する米艦隊の機動をおさえることを連合艦隊、軍令部に意見具申していたが、同地攻略の兵力や配備航空兵力を出す余裕もなく、また中立国のソ連を刺激する心配もあったので、この意見は採用されず見送られていた[1]。
一方で1942年2月、連合艦隊の同方面に対する関心はさらに高まった。また米空母の機動が頻繁となり、わが本土奇襲の懸念がますます増加してきた。そのため連合艦隊も軍令部もこの正面に対する関心が強まり、一部にはキスカ攻略の実施を考えるものも出てきていた。このような時期にミッドウェー作戦が内定した。
そこで軍令部はミッドウェーと同時にアラスカのアリューシャン列島西部を攻略し、米航空兵力の西進を押さえるとともに、両地に哨戒兵力を進出させれば、米空母のわが本土近接を一層困難にすることができると判断し、その作戦実施を連合艦隊にはかり、連合艦隊でもその必要性を認めていたし、攻略兵力にも余裕があったので直ちにこれに同意した[2]。また、軍令部第一部長福留繁は「ミッドウェーを攻略しても、劣勢な米艦隊は反撃に出ないのではないかとの懸念が強かった。
そこでアリューシャン列島方面への攻略作戦を行えば、同地がアメリカ領であるため、ミッドウェー方面への米艦隊の出撃を強要する補助手段となるだろうとの含みもあり、実施を要望した。」と回想している。軍令部一課長富岡定俊は「ミッドウェー作戦の戦術的牽制にもなるだろうと考えた。」と回想している[3]。同作戦によりミッドウェーとキスカ島間に哨戒機を往復させて米空母が近接するのを防ごうという意見の者もいたが、軍令部航空主務部員の三代辰吉も連合艦隊航空参謀の佐々木彰も、霧などの関係から到底そのような飛行哨戒は不可能と考え、全くその案は考慮しなかったと回想している[4]。陸軍参謀本部もアリューシャン列島攻略の必要性をかねてから認めており、同作戦の実施は問題ではなかった[5]。
1942年4月15日(推定)に上奏された「大東亜戦争第二段作戦帝国海軍作戦計画」には、「成る可く速やかに「アリューシャン」群島の作戦基地ヲ破壊又は攻略し米国の北太平洋よりする作戦企図を封止す」とある[6]。
1942年5月5日、永野修身軍令部総長より山本五十六連合艦隊司令長官に対し大海令第18号が発令された。
- 連合艦隊司令長官は陸軍と協力し「AF」(ミッドウェー)及「AO」(アリューシャン)西部要地を攻略すべし。
- 細項に関しては軍令部総長をして指示せしむ。
アリューシャン群島作戦に関する陸海中央協定では、AL作戦の目的として「「アリューシャン」群島西部要地ヲ攻略又ハ破壊シ同方面ヨリスル敵の機動並二航空進行作戦ヲ困難ナラシムルニ在リ」が示されている[7]。作戦方針として「陸海協同シテ「キスカ」島「アッツ」島ヲ攻略スルト共二「アダック」島ノ軍事施設ヲ破壊ス」と示している。ダッチハーバー空襲に関しては作戦要領で「海軍は有力なる部隊を以て攻略部隊を支援すると共に上陸前母艦航空部隊を以て「ダッチハーバー」方面を空襲し主として所在航空兵力を撃破す」と示されている。また作戦名は「本作戦をAL作戦と呼称す」とある[8]。
経過
ダッチハーバー基地空襲
5月25日、空母2隻(隼鷹、龍驤)、巡洋艦3隻、駆逐艦5隻の敵航空兵力・施設を空襲する艦隊が大湊を出航した。続いて巡洋艦2隻、駆逐艦3隻、輸送船2隻のキスカ島攻略部隊が5月28日、巡洋艦1隻、駆逐艦3隻、輸送船1隻のアッツ島攻略部隊が5月29日にそれぞれ出航した。
6月3日23時(現地4日早朝)、角田覚治中将が率いる第二機動部隊はダッチハーバーの南西180海里から第一次攻撃隊を発艦させた。龍驤、隼鷹の攻撃隊はアメリカ海軍基地を空襲して帰還した。十分な戦果は得られなかったが、マクシン湾に駆逐艦5隻を発見した。このため4日5時45分、第二次攻撃隊を発艦させたが一部が敵戦闘機と交戦した他は天候不良のために引き返した。
翌日、第三次攻撃隊を発艦させ艦船、地上施設を炎上させたものの対空砲火、P-40の激しい反撃を受けた。龍驤から発艦した零戦一機がアクタン島に不時着、その後ほぼ無傷の機体がアメリカ軍の手に渡り、研究されて零戦の情報が暴かれた(アクタン・ゼロ)。この日は高雄、龍驤が敵の空襲を受けたが命中弾はなかった。
アッツ島・キスカ島の占領
1942年6月6日、アッツ島に北海支隊1,150名が上陸したが、同島に敵の守備隊は存在せず特段反撃を受けることもなく占領に成功する。7日、キスカ島に第三特別陸戦隊550名、設営隊750名が上陸し、同島も守備隊は存在せず占領に成功する。しかし、同時進行していたMI作戦で日本軍はアメリカ機動部隊の攻撃を受け空母4隻を失い(アメリカ海軍は正規空母1隻などを失う)、AL作戦も一時中断しアダック島への攻撃は実施されなかった。
参加兵力
日本
作戦開始時のもの
- 北方部隊(指揮官:第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将)
出典[9]
アメリカ
- 第八任務部隊 司令長官:ロバート・シオボルド少将
結果
日本はダッチハーバーを空襲し、アッツ島、キスカ島の占領に成功した。これに対し、ジョージ・マーシャル陸軍参謀総長は、「日本軍の西部アリューシャン占領は戦略的には比較的重要性はないが心理的には重大な不安を生んだ。しかしながら、当時中部、南部、及び西南太平洋において情勢を維持するために、船、飛行機、及び訓練された部隊の極度の欠乏のため、キスカ、アッツの奪回のための早急な作戦は行わない」と決めた[10]。
出典
参考文献
- 戦史叢書21巻 北東方面陸軍作戦(1)アッツの玉砕
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書第29巻 北東方面海軍作戦』朝雲新聞社
- 戦史叢書43巻 ミッドウェー海戦
- 『アリューシャン海軍作戦(自一九四二年三月至一九四三年二月)』第二復員局残務処理部、1947年。NDLJP:8815607。
- 『アリューシャン作戦記録. 訂正事項』復員局資料整理部、1949年。NDLJP:8815557。
関連項目
外部リンク
AL作戦
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1942年(昭和17年)5月3日、第1002号艦(隼鷹)は竣工。隼鷹艤装員事務所を撤去する。特設航空母艦隼鷹として呉鎮守府所管。この時点では特設航空母艦(特設艦船)であるため、まだ艦首の菊御紋章がついていなかった。主要初代幹部は、石井藝江大佐(隼鷹艦長)、副長羽田次郎中佐、飛行長崎長嘉郎少佐、航海長鈴木荘少佐、砲術長吉野富大尉、通信長佐伯洋大尉、機関長村田利男中佐。 隼鷹は竣工と同日附で第四航空戦隊(司令官角田覚治少将)に編入された。四航戦は軽空母2隻(龍驤、祥鳳)で編成されていたが、祥鳳は5月7日の珊瑚海海戦で沈没していた。隼鷹は内海西部で訓練に従事したが、艦・飛行機隊とも訓練期間が極めて短かった。5月19日、隼鷹は広島湾那沙美水道の最狭部で軍艦大和(連合艦隊旗艦)と反航してすれ違い、宇垣纏連合艦隊参謀長(大和座乗)は「無謀とや云はん。禮儀を知らずとや云はん。」と隼鷹艦長(石井大佐)に怒っている。同日、隼鷹は基地航空隊用の零式艦上戦闘機12機を搭載した。 5月20日附で、四航戦(龍驤、隼鷹)、第四戦隊第2小隊(摩耶、高雄)、第一水雷戦隊(旗艦〈阿武隈〉、第6駆逐隊〈響、暁、雷、電〉、第21駆逐隊〈若葉、初霜、子日、初春〉、第7駆逐隊〈潮、曙、漣〉)は北方部隊に編入された。隼鷹は第二機動部隊に所属し、四航戦(龍驤、隼鷹)、重巡洋艦2隻(摩耶、高雄)、駆逐艦3隻(潮、曙、漣)、補給船「帝洋丸」と共にアリューシャン方面作戦に参加する。5月22日、各隊(四戦隊、21駆)・(四航戦、6駆)は瀬戸内海を出撃後、下関海峡を通過し、訓練を実施しながら日本海を北上する。5月25日、大湊到着。翌日、第二機動部隊(四航戦、第四戦隊、第7駆逐隊、帝洋丸)は大湊から川内湾へ移動。ダッチハーバー(ウナラスカ島)に向かった。 6月3日2300よりダッチハーバーや同方面所在の小型艦艇に対し空襲を行う(第一次攻撃隊〔龍驤艦攻14・艦戦3、隼鷹艦爆15・艦戦13〕、第二次攻撃隊〔艦攻14、艦爆15、艦戦12、水上偵察機4〕)。だが天候不良に加え小数兵力のため大きな戦果をあげることが出来なかった(水偵1喪失、水偵1を回収後放棄)。 6月5日、ミッドウェー海戦で南雲機動部隊からは主力空母4隻(赤城、加賀、蒼龍、飛龍)が沈没した。並行して実施されていたミッドウェー海戦の敗北報告を受けた角田司令官は、ダッチハーバーへの第三次攻撃(艦攻9、艦爆11、艦戦11)を実施してからミッドウェー方面に向かう事を決定。天候悪化により隼鷹艦爆1機が行方不明となった。龍驤所属の零戦が不時着し、アメリカ軍に鹵獲されたのも、この作戦中の出来事だった(アクタン・ゼロ)。同方面行動中、隼鷹は雲間より出現したPBYカタリナ飛行艇に雷撃されるが、投下位置が隼鷹に近すぎたため魚雷は飛行甲板を越えて反対舷に落下、その後PBYは高雄に撃墜されたという。また索敵行動中、軽空母の龍驤(四航戦旗艦)の航空燃料が不足したため、龍驤艦載機を隼鷹に着艦させて補給することになったという。 6月14日、攻略部隊に所属していた空母瑞鳳、第三戦隊第1小隊(比叡、金剛)等が北方部隊に合流した。隼鷹は駆逐艦から蒼龍の搭乗員を受け入れたという。また本土からも空母瑞鶴が出撃し、6月23日に大湊で四航戦と合流した。17日附で北方部隊指揮官(第五艦隊司令長官)が発令した第二軍隊区分の主要兵力は、主隊(那智)、支援部隊(第一支援隊〈比叡、利根、筑摩〉、第二支援隊〈妙高、羽黒、木曾、多摩、阿武隈、駆逐隊1〉)、第二機動部隊(第一空襲部隊〈龍驤、隼鷹、高雄〉、第二空襲部隊〈瑞鶴、瑞鳳、摩耶〉)というものだった。作戦行動中、隼鷹は機関故障を起こす。6月24日、隼鷹は大湊に到着。29日、駆逐艦暁(第6駆逐隊)に護衛されて大湊を出発、下関海峡を通過し、7月3日に呉へ帰投した。同日、「隼鷹」は機動部隊に復帰した。後日、山本五十六連合艦隊司令長官は、第二機動部隊に感状を与えた。
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