第一水雷戦隊
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略称は一水戦。主力の戦艦部隊(第一艦隊)を護衛するための水雷戦隊であり、第二艦隊の所属である第二水雷戦隊よりやや旧式の駆逐艦で構成された。太平洋戦争開戦直前に想定していた日米艦隊決戦における夜戦では、一水戦と第六戦隊(青葉、加古、衣笠、古鷹)で第三夜戦隊を編成する。太平洋戦争開戦時は、引き続き第一艦隊に所属していた。第一水雷戦隊司令官および阿武隈と第17駆逐隊は南雲機動部隊警戒隊として真珠湾攻撃やセイロン沖海戦に至るまで第一航空艦隊(司令長官南雲忠一中将)と行動を共にし、第6駆逐隊や第21駆逐隊は南方作戦に、第27駆逐隊は第五航空戦隊と共に珊瑚海海戦に参加するなど、分散して行動した。 第二段作戦から北方に転戦し、北方部隊(指揮官は第五艦隊司令長官細萱戊子郎中将)の指揮下でアリューシャン列島の作戦に従事した(アリューシャン方面の戦い、アッツ島増援作戦、アッツ島沖海戦など)。ただしミッドウェー作戦時の第27駆逐隊と第24駆逐隊は、連合艦隊旗艦大和を基幹とする主力部隊に所属していた。また一水戦所属だった第17駆逐隊が新編の第十戦隊へ転出し、一方で第十戦隊の第7駆逐隊(潮、漣、曙)が北方部隊に編入されてアリューシャン作戦に参加した。大規模な水上戦闘はアッツ島沖海戦が生起したのみで、北方部隊麾下の駆逐艦は空襲や敵潜水艦により損耗した。 1943年(昭和18年)4月1日、北方方面を担当する第五艦隊(司令長官河瀬四郎中将)に制式に編入された。6月6日、旗艦阿武隈座乗中の第一水雷戦隊司令官森友一少将が脳溢血で指揮不能になり、ビスマルク海海戦で負傷し療養中の木村昌福少将(前職、第三水雷戦隊司令官)が第一水雷戦隊司令官に補職された。7月のキスカ島撤退作戦以後は、第五艦隊の僚艦と共に北海道や千島列島の防備を担当した。 1944年(昭和19年)2月15日には第五艦隊司令長官が志摩清英中将に代わる。6月中旬にサイパン島の戦いがはじまると、一水戦を含む第五艦隊、戦艦山城、第十一水雷戦隊によるサイパン島逆上陸作戦が立案された。捷号作戦では第二遊撃部隊に所属し、小沢機動部隊の水上兵力の基幹であった。ところが台湾沖航空戦で残敵掃討のため先行して出撃を命じられ、その後の所属と作戦計画は混乱を極めた。結局、10月下旬のレイテ沖海戦では志摩艦隊としてスリガオ海峡に突入するが、10月25日の夜戦で一水戦旗艦の軽巡阿武隈が被雷したため(退避中の10月26日に沈没)、木村昌福司令官は駆逐艦霞に将旗を掲げた。つづいて一水戦はレイテ島の戦いに伴う強行輸送作戦(多号作戦)に従事した。同時期、阿武隈の代艦として軽巡木曾が内地からフィリピンへ派遣されるが、マニラ到着直後に空襲をうけて大破着底する。また11月中旬の第三次多号作戦で旗艦島風沈没と共に第二水雷戦隊司令部が全滅したため、第一水雷戦隊は二水戦に改編される形で解隊された。
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