第一段階:1918年11月〜1919年3月
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「ハンガリー・ルーマニア戦争」の記事における「第一段階:1918年11月〜1919年3月」の解説
詳細は大ルーマニアを参照 ブカレスト条約によってルーマニア軍の大半が武装解除されていた。第9、第10歩兵師団と第1、第2騎兵師団のみが戦時戦力で残されるだけとなったが、これらの部隊はソ連赤軍からの攻撃に備えるためにベッサラビアを守っていた。モルダヴィアに駐留する第1、第7、第8山岳猟兵(Vânători)師団がこの状況下で動員された最初の部隊だった。第8山岳猟兵師団はブコビナへ、他の2個師団はトランシルヴァニアへ送られた。 1918年12月1日、トランシルヴァニアのルーマニア民族がルーマニアとの合併を宣言し、1919年1月8日にはトランシルヴァニア・ザクセン民族が後に続いた。 まず、1918年12月に第1、第7山岳猟兵師団がムレシュ川まで進出。ここは11月13日にベオグラードで連合国の代表団とハンガリー政府が境界線として合意した場所である。同時にマッケンゼン元帥のドイツ軍が西方へ撤退した。 ルーマニアの要請に従いフランシェ・デスペレー将軍(仏)指揮下の連合軍東方司令部はルーマニア軍がカルパチア山脈西部まで進出することを認めた。第7山岳猟兵師団はクルージュへ、第1山岳猟兵師団はアルバ・ユリアへ向かった。12月24日、ルーマニア軍部隊がクルージュに入る。1919年1月22日までにルーマニア軍は境界線までの全域を支配した。 この時点でトランシルヴァニアのルーマニア軍はハンガリー軍を阻止するとともに、支配下に置いた地域の秩序を維持するために薄く広がっていた。そのため、ルーマニア軍最高司令部は2個師団を追加派遣することを決定し、第2山岳猟兵師団をシビウに第6歩兵師団をブラショフへ送った。トランシルヴァニアにおけるルーマニア軍統一司令部がシビウに置かれ、トライアン・モショイウ将軍が司令官となった。 ルーマニアは確保した土地の組織化に着手したが、この地域のルーマニア民族全体を取り巻くにはほど遠かった。この為、以前のオーストリア・ハンガリー軍の兵士によって新たに2個師団(第16、第18)が編成された。 2月28日、連合国理事会はルーマニア軍が進出する新たな境界線をハンガリーへ通知する決定をした。この線は鉄道合流点であるサトゥ・マーレ、オラデア、アラドと一致していた。しかしながら、ルーマニア軍は市内に入ることは許されてはいない。境界から5kmの非武装地帯が設定され、これはルーマニアがハンガリーに要求する地域を形成していた。非武装地帯からのハンガリー軍の西方への撤退は1919年3月23日と定められた。 通告は3月19日にフランス軍のフェルナン・ヴィー中佐によってハンガリー政府へ伝えられた。カーロイ政権はこの通告を受け入れられずに退陣し、3月21日にクン・ベーラが権力を掌握し、ハンガリーにおいて共産体制を樹立した。 この期間、ルーマニア軍とハンガリー軍との間では小競り合いしか起こっておらず、一度、ルーマニア軍とウクライナ軍との戦闘が発生している。また、ルーマニア軍の支配領域外でハンガリー人がルーマニア人を襲撃する事件が幾度か起こっている。
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