ブカレスト条約
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ブカレスト条約(ブカレストじょうやく)は、ルーマニアの首都ブカレストで締結された条約。以下が存在する。
- ブカレスト条約 (1812年) - 1812年に露土戦争を終結させた条約。
- ブカレスト条約 (1886年) - 1886年にセルビア・ブルガリア戦争を終結させた条約。
- ブカレスト条約 (1913年) - 1913年に第二次バルカン戦争を終結させた条約。
- ブカレスト条約 (1916年) - 1916年にルーマニアが三国協商に加盟した条約。
- ブカレスト条約 (1918年) - 1918年にルーマニアが中央同盟国側と結んだブカレスト講和条約。三国同盟側の降伏により批准せず。
ブカレスト条約
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「第二次バルカン戦争」の記事における「ブカレスト条約」の解説
詳細は「ブカレスト条約 (1913年)」を参照 ブルガリアは7月19日には早くも南ドブルジャをルーマニアに割譲することに同意した。これにより主目的を達成したルーマニアはブカレストでの講和交渉で仲介役を務めることとなった。ブルガリアはセルビアとのマケドニア分割においてヴァルダル川を国境としたかったが、セルビアはストルマ川を国境とすることを主張した。そこにオーストリア=ハンガリーとロシアが圧力をかけ、セルビアは北マケドニアの大半を得ることで手を打つことを余儀なくされた。シュティプだけは(パシッチの言葉を借りて)「フィチェフ将軍を記念して」ブルガリアに残された。イヴァン・フィチェフは第一次バルカン戦争でブルガリア軍を率いてコンスタンティノープル直前にまで攻め寄せたブルガリア軍の参謀総長であり、当時はブルガリア代表団の1人でもあった。ブルガリアがカヴァラを領有すべき理由についてフィチェフが説明したとき、ヴェニゼロスは「将軍、私たちに責任はありません。6月(29日)の前、私たちはあなたを恐れて、セレスとドラマとカヴァラを差し出したが、今や私たちは勝者の役割であり、私たちの利益しか考えません。」と返答したとされる。オーストリア=ハンガリーとロシアはブルガリアを支持したものの、ギリシャは王妃がドイツ皇帝ヴィルヘルム2世の妹だったこともあってドイツと同盟しており、さらにフランスの支援もとりつけたためカヴァラを確保することに成功した。ブルガリアは開発度の低いデデアーチ港しか確保できなかった。 交渉は8月8日までに終結した。8月10日、ブルガリア、ギリシャ、モンテネグロ、ルーマニア、セルビアがブカレスト条約を締結してマケドニアを三分割した。そのうち最も大きい北マケドニアはセルビアに、最も小さいピリン・マケドニアはブルガリアに、海岸部のエーゲ・マケドニアはギリシャに帰属した。これにより、第一次バルカン戦争前と比べて、ブルガリアは領土を16%拡大、人口を430万から470万人に増やした。ルーマニアは領土を5%拡大、モンテネグロは領土を62%拡大した。ギリシャは領土を68%拡大、人口を270万から440万人に増やした。セルビアは領土をほぼ倍増して、人口を290万から450万に増やした。 モンテネグロ代表はブカレストでの交渉で旧ノヴィ・パザル県(英語版)における譲歩をセルビアから引き出そうとしており、これは成功して11月7日にベオグラードで締結された条約にて確認された。
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