ルーマニア勢力の拡大とは? わかりやすく解説

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ルーマニア勢力の拡大

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 22:20 UTC 版)

ブカレスト条約 (1913年)」の記事における「ルーマニア勢力の拡大」の解説

ルーマニア第二次バルカン戦争介入しその後1913年ブカレスト条約締結されると、東南ヨーロッパ主導国家としての地位確立したブルガリア王国から南ドブロジャ獲得したほか、同胞とみなすバルカン半島ヴラフ人問題提起した。距離が離れていたためヴラフ人居住地域併合することはなかったが、南ドブロジャ併合はその補償としての意味合いもあった。バルカン半島における強国となったルーマニアは、近隣諸国拡大するのにあわせ、自国領土拡大する必要に迫られた。条約締結会議では、ルーマニア大きな加勢をしたと主張しブルガリア当時孤立していたこともあって、この主張大きな異議もなく受け入れられた。また、バルカン半島内のヴラフ人学校教会保護しさらには領内ヴラフ人関心持ち、その自治尊重することを保証する取り決めを、8月4日ブルガリアと、8月5日ギリシャと、8月5日から7日にかけてセルビアそれぞれ交わしたブカレスト条約は、これに続く8月10日締結されている。この条約において特筆すべきは、ヨーロッパの列強関心薄かったことである。バルカン諸国は、列強介入する前に解決しよう交渉急いだ。しかし、列強決し関知していなかったわけではなくドイツオーストリア=ハンガリー帝国ロシアでは好ましく受け止められなかった一方イギリスフランスバルカン半島の「時代到来」したと評価するなど、その反応わかれたヨーロッパ協調形成していた6大勢力は、バルカン半島での戦争を防ぐことができなかった一方その結果無視するわけにはいかず、この地域において大きな力を持たないことが証明された。当初列強ブカレスト条約改正する案もあったが、これも結局は放棄された。 続く1914年には、ルーマニアが、ルーマニア王妃の甥にあたるヴィルヘルムアルバニア公国君主へと強引に任命し大規模な軍隊派遣して彼の治世支えた。しかし、1913年ブカレスト条約確立されルーマニア覇権的地位長続きせず、1916年10月終わり迎えたルーマニア1916年8月27日連合国として第一次世界大戦に参戦し、トランシルヴァニア侵攻開始したが、10月16日までにルーマニア軍撤退余儀なくされる。さらに1週間後10月23日には、主要港コンスタンツァ中央同盟国占領されてしまった。

※この「ルーマニア勢力の拡大」の解説は、「ブカレスト条約 (1913年)」の解説の一部です。
「ルーマニア勢力の拡大」を含む「ブカレスト条約 (1913年)」の記事については、「ブカレスト条約 (1913年)」の概要を参照ください。

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