ルーマニア再軍備
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/05 14:23 UTC 版)
「ゲオルゲ・タタレスク」の記事における「ルーマニア再軍備」の解説
首相時代に、タタレスクはルーマニア軍の近代化に特に懸念を抱いていた。首相に就任した直後に、彼は軍需省を新たに設立して自ら軍需大臣に就任、その後、第三次内閣に至るまで3年以上に亘って在任し続けた。 1935年4月27日、首相タタレスクの下で十か年再軍備計画が発動した。この計画の下、シュコダ社の100mm榴弾砲を248門(1930年代中頃に支給)、150mm榴弾砲を180門(1936年から1939年頃に支給)入手し、126台のLT-35軽戦車と35台のAH-IV豆戦車を発注した。こうしたチェコスロヴァキアからの支給は、同年にナチス・ドイツが12機のフォッケウルフFw-58輸送機を注文し、4月から6月にかけて支給されたことに倣って行われた。またルーマニアは、ドイツから技術者を雇い、レシツァの工業地帯(英語版)から産出される資材を用いて、ガラツィに造船所を建設、1938年から1943年にかけて、マルスィヌル潜水艦やルカヌル潜水艦を設計した。1930年代初頭の「シュコダ事件」の後に、より良いレートで再開されたシュコダとの取引は、タタレスクの熱意と実力によるものとされたが、この取引は全くの無駄に終わってしまった。1937年末の首相交代までにルーマニアが入手できた戦車は、126台の軽戦車と35台の豆戦車のうち、それぞれたったの15台と10台だけであった。注文した車両分が全て届いたのは、1938年末から1939年初頭にかけてだった。 1936年に、ルーマニアはポーランドのPZL P.11戦闘機のライセンス生産を開始、95機がルーマニア航空工業にて製作された。また、1937年にはPZL P.24戦闘機の生産も開始され、1939年までに25機が製作された。
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