第三次内閣とは? わかりやすく解説

第三次内閣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:46 UTC 版)

近衛文麿」の記事における「第三次内閣」の解説

1941年昭和16年7月18日に、第3次近衛内閣組織外相には、南進論者の海軍大将豊田貞次郎任命した7月23日にすでにドイツ降伏していたフランスヴィシー政権からインドシナ権益移管され、それを受けて7月28日南部仏印進駐実行し7月30日サイゴン入城。しかしこれに対すアメリカ対日石油全面輸出禁止等の制裁強化により日本窮地に立たされることとなった9月6日御前会議では、「帝国国策遂行要領」を決定イギリスアメリカ対す最低限要求内容定め交渉期限10月上旬区切り、この時までに要求受け入れられない場合アジア植民地を持つイギリスアメリカオランダに対す開戦方針定められた。 御前会議終わった9月6日の夜、近衞はようやく日米首脳会談による解決決意し駐日アメリカ大使ジョセフ・グルー極秘のうちに会談し危機打開のため日米首脳会談早期実現強く訴えた事態重く見たグルーは、その夜直ち首脳会談早期実現要請する電報本国打ち国務省では日米首脳会談検討直ち始まりアラスカ州で行うことまで決まられ、日本海軍近衛用に用船準備した。しかし、国務省では妥協ではなく力によって日本封じ込めるべきだと考え10月2日アメリカ国務省日米首脳会談事実上拒否する回答日本側に示した。この日米首脳会談計画察知した辻政信は、当時自分嘱託であった児玉誉士夫近衛文麿アメリカに行くなら横浜から船だろう、そうすると六郷橋列車で通るから、それをもろとも吹き飛ばせ暗殺支持されたと証言している。前述通り首脳会談実現しなかったので計画流れた陸軍アメリカ回答をもって日米交渉事実上終わり判断し参謀本部政府対し外交期限10月15日とするよう要求した外交期限迫った10月12日戦争決断迫られ近衞外相豊田貞次郎海相及川古志郎陸相東條英機企画院総裁鈴木貞一荻外荘呼び対米戦争への対応を協議したいわゆる荻外荘会談」である。そこで近衞は「今、どちらかでやれと言われれば外交でやると言わざるを得ない。(すなわち)戦争に私は自信はない。自信ある人にやってもらわねばならん」と述べ10月16日政権投げ出し10月18日内閣総辞職した。近衞東條は、東久邇宮稔彦王次期首相に推すことで一致した、しかし、東久邇宮内閣案は皇族累が及ぶことを懸念する内大臣木戸幸一らの運動実現せず東條次期首相となった近衞東條首相に推薦した重臣会議病気理由欠席しているが、当時91歳の清浦奎吾出席していたのと対比され後世近衞批判一因となった。ただ、近衞娘婿秘書官務めていた細川護貞は「当時近衞は痔に悩んでおり、昭和16年10月頃は椅子にも深く座れず腰を少しだけ乗せていたほど症状ひどかった」と保阪正康インタビュー語っており、近衞健康状態悪化政権投げ出し重臣会議欠席つながったのは事実可能性がある(保阪著『続昭和怪物七つの謎』講談社2019年)。

※この「第三次内閣」の解説は、「近衛文麿」の解説の一部です。
「第三次内閣」を含む「近衛文麿」の記事については、「近衛文麿」の概要を参照ください。

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