第三次北属期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/13 23:37 UTC 版)
「en:Third Chinese domination of Vietnam」も参照 隋の下で北ベトナムの行政区画の再編が実施され、従前の交趾の都城である龍編に代わり、東南アジアと中国両方と水路で結ばれている宋平(英語版)(トンピン、現在のハノイ)が新たな都城に定められた。604年に交州総管府が設置、679年に海上交易の拠点である交州の振興のため唐によって安南都護府が設置された。唐の支配下では、安南都護府は南海の特産品を中国にもたらす拠点として機能する。 687年に都護府が実施した税金の増額に対し、李嗣先(中国語版)(リー・トゥ・ティエン)と丁建(ベトナム語版)(ディン・キエン)らが反乱を指導し、都護の劉延祐を殺害した。722年に梅叔鸞(マイ・トゥック・ロアン)が驩州(現在のゲアン省)で反乱を起こし、梅黒帝を自称した。チャンパ、クメールの支援を受けた梅叔鸞の反乱は大規模なものになるが、同年に反乱は鎮圧される。8世紀半ばから都護府はシャイレーンドラ、チャンパの襲撃を受けて軍備が増強され、軍備の増強に関わる負担は現地の人間に重くのしかかった。 766年に馮興(中国語版)(フゥン・フン)と馮駭(フゥン・ハイ)の兄弟が反乱を起こし、羅城に入城した馮興は都君(ドクァン)を自称した。790年に馮興が没した後、その長子である馮安(中国語版)(フゥン・アン)が跡を継ぐが、馮安は唐の説得を受けて羅城を明け渡した。 846年に雲南の南詔が安南に進出し、862年に都護府は南詔の占領下に入る。865年に安南都護計略使・高駢(中国語版)(カオ・ビエン)による安南奪回が開始され、翌866年に交趾の大羅城が唐の支配下に戻る。高駢は大羅の再建にあたって城壁を強化し、城壁が取り囲む範囲は後代のハノイの中心地域とほぼ一致する。高駢の統治下で安南の民衆は唐に恭順し、高駢は9年の任期を終えて帰国した。 880年、節度使の曽袞が城府から追放される。 唐の没落は中国の支配が終結する転機となる。 906年にこれまで安南に派遣された中国人に代わり、在地の土豪である曲承裕(クック・トゥア・ズー)が初めて節度使となった。唐に曲氏を抑える力は既に無く、曲氏の政権はベトナムに独自の行政区画を制定し、戸籍を作成する。曲氏は政権を安定させるにあたって唐の制度の踏襲を志向し、907年の唐滅亡後に成立した後梁に使者を送り、節度使を名乗る許可を得た。曲氏の統治下で安南は一時的に平穏を取り戻し、唐の文物が取り入れられて仏教と道教が広まった。923年に曲氏の政権は広州に成立した南漢の攻撃を受けて壊滅するが、931年に曲氏に仕えていた楊廷芸(ズオン・ディエン・ゲ)が南漢軍を破り、節度使を自称する。楊廷芸は部下の矯公羨によって暗殺されるが、938年に楊廷芸の部下であった呉権が白藤江の戦いで南漢軍に勝利し、翌939年に王を称した。
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