海上交易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 20:52 UTC 版)
海岸沿いには多くの港と都市が存在し、新羅、日本、東南アジア、インドなどへの海上航路が通じていた。海上貿易を統括する市船司が713年には広州に設置された。唐代の造船技術と航海技術は進歩し、遠洋船舶の製造が可能となった。広州を中心として、南方国家との交易が盛んとなり、海上貿易はさらに発展した。 市船司は市船使を責任者とし、胡人の商人は関税を払い、荷物の検査を市船司に受け、国家が必需品を買い上げて、残りが広州の市で取引された。国家の買い上げは政府や市船使に大きな利益をもたらした。 広州は最大の貿易港であり、絹や唐三彩、白磁、青磁などの陶磁器、鏡が交易に用いられ、香料や薬の材料、沈香や象牙、真珠、犀角、玳瑁、龍脳、宝石などが買い取られた。また、当時の広州からの航路は、秋か冬にモンスーンを利用して、東南に出向き、西航してチャンパ(林邑)、スマトラ島、アンダマン諸島、セイロン島を経てインド海岸に沿い、イランのペルシャ湾沿岸に至るというもので、順風により90余日で達することができたとされる。 安史の乱以降は、陸上交易が吐蕃によって塞がれて衰退し、海上での外国との交易がさらに盛んとなった。広州だけではなく、揚州、登州、明州、泉州、抗州も海上交易で栄えた。その交易の船舶はペルシャやアフリカにまで達したと伝えられる。多くのアラビア商人が訪れ、広州には居住地域が設置された。この海上交易は「海のシルクロード」とも呼ばれ、陶磁器を中心に、絹、茶が交易品であった。海上交易の発展により、より大量輸送が可能となり、陸上交易の意義を奪っていった。
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