海上交通史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/21 05:51 UTC 版)
北部ヨーロッパから地中海へのルート上の突出した陸標であることから、フィニステレ岬の海戦と呼ばれる戦いが付近で何度か行われてきた。またこの地の海岸は、数多くの船が難破したことから、地元では「コスタ・ダ・モルテ(Costa da Morte)」すなわち「死の海岸」と呼ばれている。1870年にはイギリス海軍の甲鉄艦「キャプテン」が遭難し、約500名の死者を出した。 また、大英帝国の植民地統治に関する法律(1764年砂糖法(Sugar Act)の1766年改正法など)では、特定の商品を、フィニステレ岬の緯度を超えて植民地間で輸送することを禁じていた。例えばサトウキビをジャマイカから直接ノヴァスコシアに運ぶことはできなかった。法律は、そのような場合にはまずサトウキビはジャマイカからイングランドまで運ばれることを求めており、その後、ノヴァスコシアに再輸出されることになっていた。
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