造船技術
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 05:51 UTC 版)
大和型は軍艦である以上、故障・不調は許されず、艦政本部長からも「武人の蛮用に適するものたらしむるべし」と訓示されている。溶接適用範囲の縮小、主機械のディーゼルから蒸気タービンへの変更など、石橋を叩いた設計であった。艦橋形状や舵配置、機関等の重要構造部はテストベットを経て採用されており、昭和10年代に確実性を確保されていた建艦技術が投入されたと言える。建造に当たっての実艦試験として有名なところでは練習戦艦比叡の戦艦復帰改装時の艦橋形状の採用、潜水母艦大鯨で故障続きだったディーゼルエンジンの不採用などがある。 大和型では、建造期間短縮のため、鋲(リベット)によるブロック工法が行われた。武蔵(三菱長崎造船所)ではブロック工法に対して消極的で2倍の工程数がかかっている。残された呉海軍工廠資料によると、強度が必要とされる箇所は鋲(リベット)接合が用いられ、電気溶接は主要構造部にはほとんど用いられていなかった。これは大和級建造当時の日本の溶接技術レベルがまだ低く、信頼性のある溶接棒が製造できなかったことが主な原因だった。大和型以前の「大鯨」や「最上」で溶接を多用した結果、船体変形などの問題が起こっていた。溶接によるブロック工法は、戦時量産の戦時標準船や海防艦などにおいて実用化された技術であった。ただし、大和型でも上部構造物などで可能な限り溶接を使用することにより船体重量を抑えようとしていたことも設計図面の溶接を示す長体「S」マークから証明されている。 リベット接合は建造期間を延長し重量を増加させた。大和級のリベットは直径約4cmあり、鋲打機も特注で大人2人で抱えあげて打ち込んだという。装甲が堅く厚いため一度打ち込んだ鋲が歪んだ場合、その鋲を抜くだけで丸一晩かかることも珍しくなかったという。 溶接範囲は時期が後になるほど技術が進歩するにつれて拡大し、大和の溶接延長が460kmだったのに対し、3年後の信濃では2,600kmとなった。信濃は空母に改装されたため単純に比較は出来ないが、甲鉄量や排水量がほとんど同じレベルであるため工数、鋲接本数も似た値となっている。 大和級建艦に携わった技術陣の多くは戦後、活躍の場を民間に移し、戦後高度経済成長期の巨大タンカー建造などに携わった。西島亮二が中心となって生み出された西島式ともいわれる呉工廠における大和建造時の膨大な工数管理は、今日の大型船舶建造の基礎ともなり、海防艦のブロック建造方式とあわせて造船王国日本の復活を下支えした。その後、前間孝則が西島の日記を遺族より見せてもらうことで、工数管理面の実像が世間一般にも知られるようになった。 ただし、造船技術の賛美傾向に付いては、警鐘を鳴らす当事者も居た。堀元美は1967年の雑誌記事で、当時の日本造船界が隆盛の影でエンジンが外国からのライセンス購入品が大勢を占めていることなどを根拠として、「大和において日本の造船技術が完成した、というような、固定的な考えかたには、同意できない。技術は生きものであって、けっして止どまってはいない。」「大和をつくった先輩たちの偉大さを確認するためには、日本の造船技術発達の流れを知り、その流れの中の、いかなる時点で大和がつくられたか、を論じる必要がある。満載排水量が七万トンとか、甲鉄の厚さが四一〇ミリといっても、それだけでは、時代が変われば骨董品的な価値しかない」と釘を刺している。
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