造船工として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/24 07:24 UTC 版)
「ウィリアム・フィップス」の記事における「造船工として」の解説
ジェームズ、メアリーのフィップス夫妻の息子として、ケネベック川河口のネカセット(現在のメイン州ウーリッジ)の開拓者集落に生まれた。6歳の時に父を亡くし、母メアリーは近所の開拓者仲間であるジョン・ホワイトと再婚した。コットン・マザーが自伝の中で、フィップスは彼の26人の子供のうちの一人と主張しているが、これはどうやら誇張のようである。母メアリーはジェームズとの間に6人、ジョン・ホワイトとの間に8人の子供をもうけたが、他にも夭折した子供たちがいたようである。父ジェームズの祖先はノッティンガムシャーのジェントリで、フィップス自身はアイルランドの大法官サー・コンスタンティン・ヘンリー・フィップスのいとこにあたる。マザーによれば、フィップスは18歳までは羊飼いの仕事をしており。その後4年の造船工の年季奉公に出た 。彼は読み書きは習っていたが、正規の学校教育を受けていなかった 。このため日常会話や文章が洗練されておらず、富と名誉を手に入れてからは、自らの秘書にしばしば援助を仰いでいた。 1673年に造船工の奉公が終わったフィップスはボストンに行って、造船と大工の仕事を続けた 。その1年後、ジョン・ハル(マサチューセッツのミントマスターのジョン・ハルとは別人)の未亡人メアリ・スペンサー・ハルと結婚した。メアリーの父親ダニエル・スペンサーは、商人であり、メインに利権付きの土地を持っていた。フィップスはかなり若いころからメアリーを知っていたと思われる。2人は、誰の目にも互いに幸福そうであったと言われ、フィップスもまた、長い間家を留守にしている間に、浮気をはたらいたという話は伝わっていない。 1675年、フィップスは、メインのメリーミーティング湾のシープスコット川に面した造船所を作った。この造船所の経営はうまく行き、多くの小型船を作っていた。しかし、さらに大きなことを思いついたフィップスは、1676年に大型商船を作った。1676年8月の処女航海に備えて、木材を積み込む準備をしていたところへ、インディアンの一団がこの造船所を襲った。フィップスは、この船に、貨物の木材よりも地元の人々をできるだけ多く乗せて、インディアンから逃がした。経済的に破綻はしたが(インディアンたちは造船所も木材も使い物にならなくした)、彼はボストンで英雄視された。 その後フィップスは、彼の腕を知る投資家たちに援助を受けて、ボストンで造船所を始めた。彼の母親と継父はメインに戻って入植地を建て直し、継父の死まで両親はそこに住んだ。その後母メアリはボストンに戻り、フィップスが生活の面倒を見た。
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