造船の町として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/08 04:14 UTC 版)
「バロー=イン=ファーネス」の記事における「造船の町として」の解説
バローは西側のウォルニー島が天然の防波堤となって、外海からの波の影響を受けにくい地形であることから、産業革命期の早い段階から造船に適した地と見られていた。1850年代に建造されたJane Roper号がその最初の1隻とされている。 1867年にデヴォンシャー・ドックが開業したのを皮切りにバローにおける近代的造船業の発展が始まり、1871年には造船所と製鉄所を統合した「バロー・シップビルディング・カンパニー」が設立された(社長は前述のラムズデンである)。エクリプス級防護巡洋艦ジュノーなどを建造するなど、造船所はイギリス海軍艦の重要な建造社のひとつになった。1897年にヴィッカースによって買収されたが、その後も造船所は拡大を続けた。ヴィッカースは水道を挟んだ対岸のウォルニー島を買収し、1900年代から労働者の居住用の新しい計画都市区画(ヴィッカース・タウン)を作った。20世紀のバローはヴィッカース社の企業城下町として発展していく。 19世紀末以降拡大された造船所はやがてイギリスで有数、つまりは当時の世界最大級の規模になり、多数の客船、貨物船、そして軍艦を建造した。第一次世界大戦中にバローの人口は8万2千人を超えてピークに達した。 1901年にイギリス海軍初の潜水艦「ホランド1」を建造して以来、1914年までにイギリスで建造された潜水艦の9割以上はバローのヴィッカースで建造された。この伝統が現在も受け継がれている(→産業の項)。ヴィッカースはまた飛行船の建造にも乗り出し、ウォルニー島の北側に現在も残る飛行場を建設した。 第二次世界大戦では造船所、製鉄所がドイツ空軍の標的となり、数度にわたって大規模な空襲を受けた(→Barrow Blitz)。ウォルニー島飛行場に戦闘機隊が常駐し、市街や周辺の各所に対空砲陣地が作られ、空襲に対抗した。空襲の被害は市街地にも及び、最終的に空襲で83人が死亡、1万1千棟以上の家屋が破壊された。しかし造船所も製鉄所も完全に破壊されることはなく、終戦までその機能を維持し続けた。 1951年に人口が7万8千人に迫り第二のピークを迎えたが、その後製鉄業は海外との競争から脱落して落日を迎えた。1963年に製鉄所が閉鎖、その3年後にはファーネス地方で最後に残っていた鉱山も閉山し、鉱石の積み出し港・鉄鋼の輸出港としての機能は失われた。しかし造船業は21世紀となった現在も(企業はヴィッカースから国営化を経てBAEシステムズと変遷したが)存続している。
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