造船と政治
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:42 UTC 版)
大陸軍はリシュリュー川とシャンプレーン湖を撤退するとき、イギリス軍が残された船舶を使えないよう、撤退するごとに用心深くそれらを焼きあるいは沈めていった。このことでイギリス軍は船舶を建造する為に数ヶ月を要することになったが、カールトンは9月28日にロンドンに宛てて報告書を送り、「私はこの艦隊が間もなく出帆でき、戦闘で得られる成功を期待している。」と伝えた。アーノルドはイーサン・アレンと共に1775年5月にタイコンデロガ砦を占領した時、小さな海軍を作っており、それがこの時もシャンプレーン湖を偵察していた。 イギリス軍がアーノルドの戦隊に対抗するために海軍を作っている間に、カールトンはモントリオールの事後処理を行った。カールトンは、大陸軍が撤退する前のケベック市においても、地元の愛国者側同調者が演じた役割を調査する委員会を形成しており、委員を田園部に派遣してアメリカ側の活動に積極的に参加した者を逮捕した。その中にはロイヤリストを拘束した者も含まれた。カールトンは、モントリオールに到着した時にも同様な委員会を設定した。
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