造船(技術)士官時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/11/12 03:23 UTC 版)
東京帝国大学では造船を学び、試験に合格して海軍委託学生となる。1941年(昭和16年)には目黒区三田にあった海軍技術研究所造船研究部に所属しており、静かな環境で学際的な雰囲気の元、海軍のみならず日本の基礎工業に技研が果たした役割を高く評価している。戦時中にはシンガポールに派遣され、英軍によって破壊されたセレター軍港を接収して開設された第101工作部にて施設復旧等に従事、訪独の帰途英軍の敷設した機雷に触れて沈没した伊30の引揚げにも関わっている。その後は呉工廠造船部に移り、1945年(昭和20年)の7月に舞鶴工廠富山分工場の造船課長へと転出。富山で終戦を迎えた。 士官着任以前の海軍委託生時代から艦艇に関する資料の蒐集を始めており、1945年夏に舞鶴工廠富山分工場に赴任した際には既に貨車一両ほどの量を集めていた。太平洋戦争終戦の頃福井自身により撮影された旧海軍艦艇の写真は整理が早く済んだのか、世に多く公開されている(但し福井が撮影した写真で現存する物の全てであるかは不明。)。福井は終戦の翌日には記録を残す為に『日本海軍艦艇総集』の刊行を決意(未完。詳細は批判の項参照)していたと言う。
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