造船での成功
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/05 16:51 UTC 版)
「ウィリアム・アームストロング (初代アームストロング男爵)」の記事における「造船での成功」の解説
1864年にW.G.アームストロング社とエルズウィック砲兵会社は合併し、サー W.G.アームストロング社(Sir W.G. Armstrong & Company)となった。新会社は、海軍向けの兵器生産に重点を変えた。1867年にロー・ウォーカー造船所を持つチャールズ・ミッチェル社と提携し、ロー・ウォーカー製の軍艦にアームストロング製の大砲を搭載することにした。その最初の成果である砲艦「ストーンチ(HMS Staunch)」は、1868年に竣工した。 1882年にはチャールズ・ミッチェル社と合併し、サー・ウィリアム・アームストロング・ミッチェル有限責任会社(Sir William Armstrong, Mitchell and Co. Ltd. )となった。そして、1884年にエルズウィックに軍艦専門の造船所を開いた。設計技術者として、海軍省造船官のウィリアム・ホワイトを引きぬいている。エルズウィック造船所は、オーストリア=ハンガリー帝国海軍の水雷巡洋艦「パンター」「レオパルト」を皮切りに、大は戦艦まで含めた各種軍艦の建造を行った。その重要な顧客の一人は日本海軍で、1913年までの出荷艦艇の合計排水量ではイギリス海軍につぐ量であった。エルズウィックでの艦艇設計の中心となったのはジョージ・レンデルで、彼の編み出した巡洋艦の設計手法は防護巡洋艦と呼ばれて世界中の海軍で採用されることになる。 そのほか、アームストロング社は、可動橋の建設でもいくつかの著名な事業に携わっている。例えば、タワーブリッジの動力機構はエルズウィックで製造された。タイン川の旋回式可動橋も、古い橋がエルズウィックで進水した軍艦がニューカッスルへ砲の艤装に向かう際の障害となっていたため、アームストロング社の費用で建設されたものである。 エルズウィックの工場は拡張され、1870年には川岸に1.2kmも続く広さとなった。事業拡大の影響で、エルズウィックの町の人口は、1851年にはわずか3500人だったのが、1871年には27800人に増えていた。1897年には、かつてのライバル企業のホイットワース社とも合併し、アームストロング・ホイットワース社となった。 この間、アームストロング個人はずっと会社のトップではあったが、陸軍省からの退官以後はレンデルやノーブルに日常業務を託し、次第に設計や経営の実務からは離れつつあった。私生活では、1863年に、ノーサンバーランド郊外ロスベリー(英語版)付近のクラッグサイド(英語版)と呼ばれる屋敷を購入して、カントリー・ハウス築造に精力を注いだ。1869年に建築家リチャード・ノーマン・ショウと契約し、ショウの下で以後15年間にも及ぶ改修工事が行われている。その設計には水力発電を利用するなどの新技術が採用されていた。完成したクラッグサイドには、イラン国王やタイ国王、イギリス皇太子夫妻、清の「首相」といった人物が招待された。
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