カナダ侵攻作戦
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カナダ侵攻作戦 (カナダしんこうさくせん、英: Invasion of Canada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人に13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。
- ^ 大陸軍の戦力は、何度も援軍が送られ、また多くの者が病気になって送り返されたり死んだりしたために集計が難しい。1776年5月時点での軍隊は5,000名と推計されたが、かなりの比率で軍務には不適な者が含まれており (Smith, Vol 2, p. 351)、また病気や徴兵期間の終了のために故郷に戻った者や、以前の戦闘で戦死または捕虜になった者、あるいはアーノルド遠征で引き返した者も含んでいない。1776年6月、ジョン・サリバンが3,000名以上を率いてソレルに到着した (Smith, Vol 2, p. 390)。アーノルド遠征隊が500名を失い (Smith, Vol 1, p 152)、ケベックの戦いで400名以上が捕虜になり、少なくとも900名はセントジョンズ砦包囲中に病気で送還されたとすれば、10,000名という推計はケベックに送られた勢力として合理的なものになる。ただし実働可能であった兵数はどの時点においてもこの推計よりかなり少なかったと考えられる。
- ^ Simeon, p. viiに拠れば、大陸軍侵略開始時点でのイギリス軍は正規兵700名だった。セントジョンズ砦とケベックでは民兵の支援があったとされ、主要な戦いでは総勢が1,800名になっていた(Smith (1907), vol 1, pp. 342-3 and Alden, p. 209)。1776年6月にチャールズ・ダグラスとジョン・バーゴインの率いる援軍が到着し、総勢は10,000名と民兵さらにインディアンとなった(Smith (1907), vol 2, p. 430)。
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- ^ Arnold's expedition is described in detail in e.g. Smith (1903) and Desjardins (2006).
- ^ Simeon, p. xiv
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カナダ侵攻作戦
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「ダニエル・モーガン」の記事における「カナダ侵攻作戦」の解説
1775年遅く、大陸会議はカナダ侵攻作戦を承認した。リチャード・モントゴメリー将軍のカナダ侵攻を助けるために、ベネディクト・アーノルド大佐がワシントン将軍を説得して、ケベックを東側から攻める部隊を派遣しようとした。この頃、アーノルドはタイコンデロガ砦の功績で英雄扱いを受けていた。ワシントンは彼のボストン駐在部隊の中から、兵士達が志願するならば、ライフル銃兵3個中隊を派遣することに同意した。ボストンのすべての中隊が志願してきたので、どの隊を派遣するかはくじ引きで決められた。アーノルドはその3個中隊を一つの部隊として指揮する者としてモーガン大尉を選んだ。遠征隊は9月25日にウェスターン砦を出発し、モーガンは先導隊を率いた。 アーノルド遠征隊には出発時に約1,000名の兵士がいたが、11月9日にオルレアンズ島に到着した時は600名まで減っていた。モントゴメリー将軍が到着すると、12月31日の朝、大陸軍は2手に分かれてケベック市のイギリス軍を攻撃した(ケベックの戦い)。1隊はモントゴメリー、1隊はアーノルドが率いた。 アーノルドは市の北側から下町を攻める部隊を率いていたが、足を撃たれて退却してしまった。モーガンが指揮を引き継ぎ、うまく市中に入って最初のバリケードを突破した。モントゴメリーも撃たれて彼の部隊が攻撃に失敗した時、イギリス軍のガイ・カールトン将軍はモーガンの進軍路の方に援軍を回した。カールトンは大砲を運び、モーガン軍が破ったばかりのバリケードの外側に部隊を配置した。市中で分裂し、全方位から攻撃を受けることになったモーガン軍はバラバラに降伏することを余儀なくされた。モーガンは彼の軍刀をフランス人の牧師に渡すことで降伏の意を示し、カールトンには渡すことを拒んだ。モーガンを含めて372名が捕虜となった。彼は1777年1月の捕虜交換までケベックに捕らわれていた。
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