カナダ侵攻作戦とは? わかりやすく解説

カナダ侵攻作戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/21 16:48 UTC 版)

カナダ侵攻作戦 (カナダしんこうさくせん、: Invasion of Canada)は、アメリカ独立戦争初期の1775年から1776年にかけて新設間もない大陸軍の主導によって行われた最初の作戦行動である。作戦の目的はイギリス領ケベックを軍事支配し、フランス語を話すカナダ人13植民地の側で革命に加わるよう説得することだった。


  1. ^ 大陸軍の戦力は、何度も援軍が送られ、また多くの者が病気になって送り返されたり死んだりしたために集計が難しい。1776年5月時点での軍隊は5,000名と推計されたが、かなりの比率で軍務には不適な者が含まれており (Smith, Vol 2, p. 351)、また病気や徴兵期間の終了のために故郷に戻った者や、以前の戦闘で戦死または捕虜になった者、あるいはアーノルド遠征で引き返した者も含んでいない。1776年6月、ジョン・サリバンが3,000名以上を率いてソレルに到着した (Smith, Vol 2, p. 390)。アーノルド遠征隊が500名を失い (Smith, Vol 1, p 152)、ケベックの戦いで400名以上が捕虜になり、少なくとも900名はセントジョンズ砦包囲中に病気で送還されたとすれば、10,000名という推計はケベックに送られた勢力として合理的なものになる。ただし実働可能であった兵数はどの時点においてもこの推計よりかなり少なかったと考えられる。
  2. ^ Simeon, p. viiに拠れば、大陸軍侵略開始時点でのイギリス軍は正規兵700名だった。セントジョンズ砦とケベックでは民兵の支援があったとされ、主要な戦いでは総勢が1,800名になっていた(Smith (1907), vol 1, pp. 342-3 and Alden, p. 209)。1776年6月にチャールズ・ダグラスとジョン・バーゴインの率いる援軍が到着し、総勢は10,000名と民兵さらにインディアンとなった(Smith (1907), vol 2, p. 430)。
  3. ^ ペッカム (2002) , p.55
  4. ^ Smith (1907), vol 1, p. 242
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  44. ^ Smith (1907), vol 1, pp. 398-399
  45. ^ Smith (1907), vol 1, p. 515
  46. ^ Arnold's expedition is described in detail in e.g. Smith (1903) and Desjardins (2006).
  47. ^ Simeon, p. xiv
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  50. ^ Smith (1907), vol 2, p. 98
  51. ^ Gabriel, pp. 185-186
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  95. ^ Dale, p. 8



カナダ侵攻作戦

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ダニエル・モーガン」の記事における「カナダ侵攻作戦」の解説

1775年遅く大陸会議はカナダ侵攻作戦を承認したリチャード・モントゴメリー将軍カナダ侵攻助けるために、ベネディクト・アーノルド大佐ワシントン将軍説得してケベック東側から攻め部隊派遣しようとしたこの頃アーノルドタイコンデロガ砦功績英雄扱い受けていた。ワシントン彼のボストン駐在部隊の中から、兵士達志願するならば、ライフル銃兵3個中隊を派遣することに同意したボストンすべての中隊志願してきたので、どの隊を派遣するかはくじ引き決められた。アーノルドその3個中隊を一つ部隊として指揮する者としてモーガン大尉選んだ遠征隊は9月25日にウェスターン砦を出発しモーガン先導隊を率いたアーノルド遠征隊には出発時に約1,000名の兵士がいたが、11月9日にオルレアンズ島に到着した時は600名まで減っていた。モントゴメリー将軍到着すると、12月31日の朝、大陸軍は2手に分かれてケベック市イギリス軍攻撃したケベック戦い)。1隊はモントゴメリー、1隊はアーノルド率いたアーノルドは市の北側から下町攻め部隊率いていたが、足を撃たれ退却してしまった。モーガン指揮引き継ぎ、うまく市中入って最初バリケード突破したモントゴメリー撃たれ彼の部隊攻撃失敗した時、イギリス軍ガイ・カールトン将軍モーガン進軍路の方に援軍回したカールトン大砲運びモーガン軍が破ったばかりのバリケード外側部隊配置した市中分裂し全方位から攻撃を受けることになったモーガン軍はバラバラ降伏することを余儀なくされた。モーガン彼の軍刀フランス人牧師に渡すことで降伏の意を示しカールトンには渡すことを拒んだモーガン含めて372名が捕虜となった。彼は1777年1月捕虜交換までケベック捕らわれていた。

※この「カナダ侵攻作戦」の解説は、「ダニエル・モーガン」の解説の一部です。
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