カナダ侵攻
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/31 14:39 UTC 版)
「リチャード・モントゴメリー」の記事における「カナダ侵攻」の解説
詳細は「カナダ侵攻作戦」を参照 8月、スカイラーはその侵攻の間イロコイ連邦を中立に置いておくためにその代表との会合に出発し、タイコンデロガ砦にいる軍隊の指揮をモントゴメリーに任せた。スカイラーの留守中にモントゴメリーはイギリス軍がシャンプレーン湖で砲艦を建造しているという情報を受け取った。それが完成すればイギリス軍が湖に向かうことができるようになるものだった。モントゴメリーはスカイラーからの許可を求めることなく、スクーナー船USSリバティとスループ船USSエンタプライズで1,200名の兵士と共に北に移動した。モントゴメリーはスカイラーに手紙を書いて状況を説明した。 スカイラーは8月30日にタイコンデロガ砦に戻り、さらに800名をモントゴメリーの補強に送る命令を出し、病気に罹っていたにも拘わらず、モントゴメリー隊との合流を目指して進発した。スカイラーは9月4日にアイル・ラ・モットでモントゴメリー隊に追いつき、指揮を再開してリシュリュー川の小島イル・オ・ノワまで進軍を続けるよう命令した。スカイラーはその健康が思わしくなかったが、宣言書を起草し、その中でカナダ人を「友と国の民」と呼びかけ、カナダからイギリス軍を追い出すために援助を求めた。 9月6日、モントゴメリーはモントリオール市を守るためのイギリス軍の重要地点セントジョンズ砦へ偵察隊を率いて行った。モントゴメリーは湿地と深い林の地帯を抜けて砦に向かう主力部隊を率いた。マシュー・ミード大尉が率いていた側面隊がイギリス軍と同盟するインディアン100名の待ち伏せに遭った。この部隊はその陣地を守り、待ち伏せしたインディアンを砦の方向に追い返した。モントゴメリーはイギリス軍が予測したよりも多勢であることを恐れ、その日の残り時間は作戦を中断し、イギリス軍の砲弾が及ぶ範囲外まで部隊を後退させた。スカイラーは砦をそう簡単には攻略できないと考え、モントゴメリー隊を呼び戻して、イル・オ・ノワの防御を固めさせた。 スカイラーの病状が悪化したので、軍隊の日々の機能についてはモントゴメリーが指揮を執った。9月10日、モントゴメリーが率いる前より大きな1,700名の部隊が砦の方向に移動した。砦の周りの湿地帯では、大変暗かったので大陸軍の2つの部隊が鉢合わせし、互いに相手がイギリス軍だと勘違いして、共に逃げ出した。モントゴメリーが彼らに駆け寄って停止させ、逃亡を終わらせた。その部隊が砦に近づくに従い、イギリス軍のぶどう弾に曝されるようになった。大陸軍の1部隊がイギリス軍の胸壁を攻撃し、2人の被害を出させた後で後退した。翌朝、モントゴメリーは作戦会議を開き、砦に再攻撃を掛けることで合意した。しかしイギリスの艦船が川を遡って来ているという噂が広がり、ニューイングランドの兵士の半分は驚いて逃げ出した。モントゴメリーはその部隊では砦を奪取できないと考え、イル・オ・ノワまで撤退した。モントゴメリーはニューイングランドの兵士が逃げたことに激怒し、スカイラーに軍法会議を開くよう要求した。一方スカイラーの病状は改善されていなかった。スカイラーは9月16日に養生のためにタイコンデロガ砦に向けて出発し、作戦の全指揮権をモントゴメリーに委ねた。
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