再攻撃
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/07 09:53 UTC 版)
「アルゼンチン独立戦争」の記事における「再攻撃」の解説
パラグアイ、アルト・ペルー戦役での敗北により、1811年9月革命政府は第一三頭制府(英語版)に政権の座を奪われた。この政府はナポレオン戦争を戦い本土から到着して間もないホセ・デ・サン・マルティンを中佐にあて北方面軍(英語版)を再編し、アルト・ペルーへの新たなる攻撃を決定した。サン・マルティンは統率の取れる正規軍騎兵隊を創設するよう命令され、その騎兵隊は騎乗擲弾兵連隊(英語版)と呼ばれた。 第二次アルト・ペルー戦役(英語版)(1812-1813) 政府はマヌエル・ベルグラーノを北方面軍の指揮官にあてた。ピオ・デ・トリスタン(英語版)率いる王党派軍の度重なる侵攻にたいし、ベルグラーノは焦土作戦を使用することを決め、フフイとサルタの市民の退去と、物資や捕虜を渡さないために都市の破壊を命じ、この行動はフフイ追放(英語版)として知られるようになった。 ベルグラーノは政府の指示に反しトゥクマンで王党派軍と戦闘し勝利した。さらにサルタの戦い(英語版)で決定的な勝利を納め、王党派軍の大部分に武器を放棄させた。この時、サラマンカ大学での同期だったトリスタンの部隊は解放された。しかし、ヴィリカプヒオの戦い(英語版)とアヨウマの戦い(英語版)で敗北し、フフイへの撤退を強いられた。 第二次バンダ・オリエンタル戦役(英語版)(1812-1814) 1812年の初め、ブエノス・アイレスとモンテビデオ間の不可侵条約が失効したため、マニュエル・デ・サラテア(英語版)を指揮官としてバンダ・オリエンタルへの攻撃が開始されたが、指揮官は間もなくホセ・ロンデアウ(英語版)が代わり、第二次モンテビデオ包囲(英語版)を開始した。王党派軍のガスパル・デ・ヴィゴデット(英語版)が包囲を解こうと試みたものの、セリートの戦い(英語版)で敗北した。 そこで、王党派海軍は陸上封鎖を回避しようと、ウルグアイ川西岸地域への襲撃を行った。1813年1月31日、モンテビデオの王党派部隊がサンタ・フェ州サン・ロレンソへ上陸した。しかし、同年2月3日にこの部隊はサン・マルティン率いるグラナデーロス部隊により壊滅させられた。このサン・ロレンソの戦いの後、王党派によるパラナ川西岸への襲撃はなくなり、サン・マルティンは政府により軍司令官の地位を与えられた。 グラナデーロス部隊は後の11月8日革命(英語版)においても重要な役割を果たした。この革命により、第一次三頭制治が打倒され、第二次三頭政治(英語版)が始まった。新政府はより独立主義的であり、独立宣言のために13年会合(英語版)を招集した。しかし、会合ではまず三頭政を廃止しラプラタ連合州最高長官(英語版)の地位を創設し、ヘルバシオ・アントニオ・デ・ポサーダス(英語版)をその地位に選出した。 ポサーダスは就任後、1814年3月1日にフアン・ラレーラ(英語版)の資金援助により艦隊を初めて創設し、ウィリアム・ブラウン を艦隊の司令長官に任命した。急造の連合州艦隊は、その困難にもかかわらず、1814年5月14日王党派艦隊と交戦し(英語版)三日のうちに王党派艦隊を撃破した。この勝利によって、ブエノス・アイレス湾港の安全が確保され、モンテビデオは籠城戦に屈し1814年6月20日に陥落した。
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