都市の破壊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 14:06 UTC 版)
敵の都市を滅ぼし破壊したのちに、その土地を清め神に捧げるため、またはその都市を再建しようとする者を呪うために塩をまくという習慣は古代オリエントで広く行われたが、塩を用いる理由については当時の史料からはよく分かっていない。 「:en:Salt in the Bible」も参照 ヒッタイトやアッシリアの文書には、ハットゥシャやタイドゥ(英語版)、アリンナ(英語版)、フヌサ、イッリドゥ(英語版)、スーサなど滅ぼした諸都市に塩や鉱物、雑草の種をまいたという記録が多く残されている。旧約聖書の士師記(9:45)では、紀元前1050年ごろにイスラエルのアビメレク (士師)(英語)が、自らの本拠地シェケムで起こった反乱を鎮圧したのち、この町に塩をまいたことが記されている。このことから、塩土化はヘーレム(聖絶)の儀式として用いられたと考えられている。 19世紀以降の多くの歴史著作で、共和政ローマの第三次ポエニ戦争の指揮官スキピオ・アエミリアヌスが、紀元前146年にカルタゴを滅ぼした際、カルタゴ市に塩を撒いたと書かれている。確かに当時の文献はいくつかの都市に象徴的に塩がまかれたと言及しているが、それが特にカルタゴ市であったと述べているものはない。塩を撒いたとする古代の文献はなく、カルタゴ市滅亡の物語は、シェケムの塩土化をもとに後世に誇張されたことが推測できるという。 1299年、コロンナ家の反乱を鎮圧しパレストリーナを破壊した教皇ボニファティウス8世は、「アフリカのカルタゴの故事のように」パレストリーナを塩土化するよう命じ、実行した。とはいえボニファティウス8世は「…余は古代のアフリカのカルタゴのようにそれ(パレストリーナ)を耕し、そこに塩を植えた。…」と述べており、彼が「カルタゴは塩土化された」という認識を持っていたかどうかは断定できない。他にも中世イタリアの都市が塩土化されたという記録がいくつか存在している。例えばフン族のアッティラによるパドヴァ(452年、アッティラと古代アッシリアの混同によるものとみられる)、神聖ローマ皇帝フリードリヒ1世によるミラノ(1162年)、フィレンツェ共和国によるセミフォンテ(英語)(1202年)などの例があるが、これらは現在ではいずれも史実とみなされていない。 1370年ごろに成立した英語の叙事詩『イェルサレム包囲(英語版)』ではローマ軍司令官ティトゥスがイェルサレム神殿を塩土化したというくだりがあるが、フラウィウス・ヨセフスの『ユダヤ戦記』には該当する内容は見られない。
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