紀元前146年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/22 07:19 UTC 版)
紀元前146年は、ローマ暦の年である。
- 1 紀元前146年とは
- 2 紀元前146年の概要
- 3 死去
紀元前146年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/22 06:10 UTC 版)
紀元前146年にアフリカにおけるスキピオの指揮権が一年間延長された。スキピオは春に港の周辺から総攻撃を開始した。港からの攻撃を予測していたハスドルバルは付近の倉庫群に火を放った。それでもなおローマ軍の先遣部隊は軍港まで突破し、そこを占領することに成功した。さらに部隊の主力は都市の中心となる広場まで到達し、そこに夜通しで留まった。翌朝にはスキピオも軍港の部隊と合流するために4,000人の部隊を率いて向かったが、部隊がアポロン神殿から金を奪おうと道を逸れたために混乱が生じた。スキピオとその将校たちは部隊の行動を制止することができず激怒した。しかし、カルタゴ側も部隊が防衛用の陣地に撤退していたためにこの状況を生かすことができなかった。 部隊を再編成したローマ軍は組織的に都市の居住区へ侵入し、遭遇した者たちを皆殺しにして背後の建物を焼き払った。時には頭上への飛び道具による攻撃を避けるために屋根伝いに前進した。抵抗者を一掃するまでにはさらに6日を要し、最後の日にスキピオは捕虜を受け入れることに同意した。カルタゴ側に付いていた900人のローマ軍の脱走兵を含む最後の抵抗者たちは、ビュルサの丘のエシュムーン(英語版)神殿から戦い続けたものの、すべての望みが潰えると自分たちの周囲に火を放った。この時にハスドルバルは命と自由を保証したスキピオに降伏したが、その様子を城壁から眺めていたハスドルバルの妻はスキピオを祝福して降伏した夫を罵り、その後、子供たちと共に神殿に入り焼死を遂げた。ポリュビオスの断片には妻が焼死したシーンはなく、1世紀のウァレリウス・マキシムス(英語版)は、子供たちの同意を得て一緒に燃え盛る町へ身を投げたとしている。ディオドロスは、市民が飢餓に苦しむ中ハスドルバルが贅沢を繰り返し、降伏後はスキピオに取りすがってその慈悲を乞うた姿を記しており、スキピオは運命のせいにしてそれを受け入れたとしている。 都市は破壊と略奪を受け、10日間にわたって燃え続けた。都市陥落の現場に居合わせていたポリュビオスは、スキピオが勝利の大きさと破壊の大きさを前に苦悩を覚え、ホメロスの詩の一節を引用しつつ国家はどんなに栄光と権力を手にしていても永遠ではないとして祖国の運命について暗い考えを抱いたと伝えている。 日は來るべしイーリオン、聖なる都城亡びの日、槍に秀づるプリアモス、民衆ともに亡びの日。 ホメロス『イーリアス』6.448-449(土井晩翠訳) カルタゴ人の捕虜は50,000人におよび、捕虜たちは奴隷として売り払われた。また、カルタゴが何世紀にもわたってシチリアの都市や神殿から略奪した宗教関連の品々や偶像の多くは盛大な式典をもって返還された。
※この「紀元前146年」の解説は、「第三次ポエニ戦争」の解説の一部です。
「紀元前146年」を含む「第三次ポエニ戦争」の記事については、「第三次ポエニ戦争」の概要を参照ください。
- 紀元前146年のページへのリンク