舞鶴赤レンガ倉庫群
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舞鶴赤れんが倉庫群(まいづるあかれんがそうこぐん)は、京都府舞鶴市の旧舞鶴海軍軍需部本部地区(現・舞鶴港ウォーターフロント)にある12棟の赤煉瓦倉庫。北吸赤れんが倉庫群とも。文化財指定名称は舞鶴旧鎮守府倉庫施設。国の重要文化財および近代化産業遺産。
- ^ 平成20年6月9日文部科学省告示第87号
- ^ “国の重要文化財赤れんが倉庫群”. 舞鶴市. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月16日閲覧。
- ^ “舞鶴の近代化遺産(赤れんが4・5号棟)”. 舞鶴市. 2015年6月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年3月16日閲覧。
- ^ 「需品庫需品庫」は誤植ではない。「海軍需品庫」(組織)の「需品倉庫」の意である。
- 1 舞鶴赤レンガ倉庫群とは
- 2 舞鶴赤レンガ倉庫群の概要
- 3 近隣の赤レンガ建築
倉庫群
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旧糧秣支廠倉庫跡にあるモニュメント 大林組社員寮前に移された旧倉庫遺壁 上記のとおり、当初は宇品海岸に糧秣支廠が置かれ、倉庫が建てられた。現在遺構として残るものは、1910年(明治43年)保管用倉庫として宇品線宇品駅のプラットフォームに沿って煉瓦造りで建てられた。 戦後は日本通運の倉庫として用られていたが、広島南道路建設により建物取り壊しと一部モニュメントの保存が決定し、1997年3月に完成した。一部は他所に移されモニュメント保存されているものもある。
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倉庫群
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倉庫群跡が確認されたのは、福岡市博多区博多駅南5丁目、福岡市立春住小学校の西隣の街区である。1984年の比恵遺跡第8次調査で地域の北側1,410平方メートルが発掘され、2000年の第72次調査で前回調査範囲外の2,940平方メートルが発掘された。以下では、煩雑を避けるため、1984年の調査と2000年の調査の発掘成果を個別に述べることは避け、遺構全体について説明する。 上述の第8次と第72次の発掘調査の調査区からは、2か所の柵状遺構と、10棟の総柱建物跡が検出された。なお、総柱建物とは、建物の外周だけでなく内部にも密に柱を立てるもので、倉庫などに用いられる形式である。柵状遺構は、調査区の北辺と南辺にそれぞれ1か所ずつあり、現在の地割にほぼ平行して、南西から北東方向へ伸びている。この柵状遺構は、1から1.5メートルほどの間隔で立てた3本1組の柱を1ユニットとし、このユニットを3メートルほどの間隔で設置したものである。地上に設置されていた柵ないし塀の形態は不明だが、前後に庇を付した木塀のようなものと考えられる。調査区北辺の柵は現存部が12間、延長37.2メートル、南辺の柵は現存部が15間、延長38メートルとなっている。ただし、柵は調査区の東西にも伸びていたとみられ、全長は不明である。北の柵は各ユニットの柱の間隔が1.2 - 1.25メートル、ユニット間の間隔がほぼ3.1メートルで、ほぼ均一に造られているのに対し、南の柵は各ユニットの柱の間隔が1 - 1.5メートル、ユニット間の間隔が2 - 3.7メートルとばらつきが大きい。 総柱建物は、北の柵に平行して5棟、南の柵に平行して3棟、これらのほぼ中間地点の東寄りに2棟の計10棟存在した。柱間はいずれも3間×3間である。ただし、各建物の床面積は同じではない。北の柵に平行して並ぶ5棟に着目すると、床面積は16.6平方メートルから27.8平方メートルでまちまちであり、建物間の間隔も同一ではない(もっとも狭いところでは2メートルしかない)。ただし、隣り合う建物同士では、建物の北辺か南辺のいずれかの柱筋を揃えている。また、柵と建物の位置関係を見ると、建物の南北の柱筋のいずれかが、柵の柱筋と揃うようになっているなど、ある程度の計画性はみられる。各建物の方位(中軸線)は、おおむね南北の柵の伸びる方向(南西から北東方向)と一致しているが、調査区の中央に立つ2棟のうち東側の1棟のみは中軸線がずれており、柵と平行に建てられていない。遺構全体の規模は、南北が55から58メートル(北と南の柵の柱間の距離による)、東西が調査区外に伸びている部分を含め50メートル以上である。建物群は、前後の時代の遺構との切り合い(重なり)具合からみて、6世紀後半には成立し、7世紀後半には廃絶したとみられる。
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